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ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。

カテゴリは【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。




「君をのせて」から「コバルトの季節の中で」までの
17曲の解説を載せた
「ジュリーのシングル曲でたどる昭和女のイバラ道1971~1976」は、
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英語曲なので、サクッとやりますよ。サクッと。
だいたいこの曲のことは、シングル曲ベストアルバム「A面コレクション」を聴くまで全然まったく知らなかったですしね。この曲って、日本のテレビで歌ったことはあるんでしょうか? YouTubeとかでも見たことない気がします。

これは、1977年7月30日に当時の西ドイツで先行リリースされ、その後8月1日に日本でも発売されたものだそうですが、これのほんの1ヶ月後の9月5日には「憎みきれないろくでなし」がリリースされているんですよ。売る気が全然見えません。せっかく録音したんだから「勝手にしやがれ」で勢いに乗ってる今なら英語曲も売れるんじゃないかって目論見で出した、とか? でも、それならレコード大賞を受賞したあとに「あのレコ大受賞のジュリーはドイツでも人気!」とかで売り出したほうがよかったんじゃ?
それとも、もしかして西ドイツで発売するにあたっての契約上のなにか(日本でもリリースすることとか?)があったりしたんでしょうか。
どっちにしろ、とても中途半端な時期ににひっそりと発売された曲ですよね。

でも、ジュリーがフランスやイギリスでレコーディングしてデビューしてたっていうのは(ファンになってからですが)知ってましたが、ドイツでも?ってなって、ウィキペディア先生に尋ねてみたら、フランス、イギリス、ドイツの他にも、スイス、カナダ、オーストリア、ギリシャ、ノルウェー、ベルギー、オランダ……などなどでもレコードを発売してて、ジュリーったらグローバルだぜ。
これは、あれかな? 一箇所と契約するとヨーロッパ各国で自動的に発売されるとか、そういう仕組みがあったとか? それともナベプロの力? なんにしてもすごいです。
フランス以外では全然売れなかったみたいなことをジュリーも言ってましたが、でも、全然って言っても1枚も売れなかったなんてことはないと思うので、約40年前のヨーロッパのどこかでジュリーの歌声を聴いていた女の子がいて、私が今、40年前のジュリーの曲を聴いて「うおう! 懐かしー」と、当時のテレビの中のジュリーの姿とともに当時のことをあれこれ思い出してるみたいに、遠い国でもジュリーが大事な思い出の一部になってる人がいるのかもと思うと、不思議な気がします。もしかして、レコードもまだ持っていたりしてね。
国境を越えたジュリーファンの集いとかやってみたいものですなー。
あ、facebookでは、フランス人の方が作ったジュリーページがあって、グローバルな交流がされてるようなんですが、フ、フランス語……(うぐぐ

さて、この歌詞ですが、1977年の日本では阿久悠氏によって青年漫画かフランス映画かっていう大人世界に行ってしまったジュリーですが、ここではまだ少女漫画しているようです。
「Starlight」「tenderly」「Perfume」「Promising love eternally」「Teardrops」「flowers」などなどなど、キラキラした単語のオンパレード。しかも、これらはすべて「Memories」=思い出なんですよ。それも「Lost」=失われてしまった思い出です。
「you’d gone」だし「we said goodbye」だし。
んでもって、「Bring back my memories」「Love that can never be Lived again …」と、「僕の思い出を戻してよ」「僕の思い出はどこにあるの?」「もう蘇らない愛…」とかなんとか、この曲の主人公は思い出に縋りつつ、ぐだぐだとじゃなかった切々と嘆き続けています。
ヨーロッパでのジュリーは、1977年でもまだ「追憶」当時のイメージのようです。
恋人を失ってしまった悲劇の王子様。
ヨーロッパではそういうキャラで売っていたということでしょうか?

日本人は若く見られるらしいですし、ジュリーのあの容姿から、ターゲットは十代の少女たちってことで(フランスだったかの当時の少女向け雑誌に載ってるジュリーのレコードの広告を見たことがあります)、こんなキラキラな歌詞になったのかなあと思うんですが、てことは、和洋問わず当時の少女向けってのは、「お星様」「お花」「涙」が定番で、ヨーロッパの少女たちもそんなものたちを見たり読んだりして、ぽわわ~んてなってたんでしょうか。
70年代日本の少女たちには、ヨーロッパあたりの(実はどこのことなのかよくわかっていなかったりしたんだけど)外国には、お星様や大量のバラの花がキラキラしている日常があって、そこにはジュリーみたいな顔した金髪の王子様がいて……っていう憧れがあったわけですよ。
それが、その憧れの地であるはずのヨーロッパの女の子たちも同じように、お星様やお花が舞い散る世界に憧れていたのかもしれないと思うとおもしろいですね。
乙女の妄想は万国共通?
ほんと、ヨーロッパ方面にまだいらっしゃると思われる(かつての)ジュリーファンの方々といろいろ語り合いたいものです。

ところで、この英語詞は中学生レベルでも難なくヒアリングできるぐらいの単語と文法でできていて、英語難民の私でも曲を聴いてるだけで意味が取れるありがたさなんですが、念のためと思って(自分の英語力をとことん信じてないのでね…)要所要所をグーグル先生に翻訳してもらったところ、「Bring back my memories」は「私の記憶を取り戻す」、「Where are my memories」は「私の記憶はどこにあるの?」と訳してくれちゃいまして(笑)、いきなり70年代少女漫画の定番「記憶喪失」ストーリーに!

事故か病気で、これまでの記憶をなくしてしまった主人公・ジュリー。実は困難な恋の相手であるヒロインとやっとのことで想いが通じ合ったところだったというのに、そのことも思い出せずにいる。
星の光をまとったようにキラキラ光る髪、優しいキスや漂う香り、柔らかな声で誓った永遠の愛……、そんなイメージばかりが心に浮かんでは消えてゆく。でも、その相手のことはどうしても思い出すことができない。ああ……、失われた僕の記憶はどこ? 僕の記憶をもとに戻して。
てなところで、実は本当の恋人ではなかったお金持ちのお嬢様(前からジュリーのことが好きだった)登場。
「あなたは私と将来を誓った仲だったのよ。私のことも忘れてしまったの? でも、私のところに帰ってきてくれたのだから、これから新しい思い出をふたりで作っていけばいいわ」
とかなんとか言っちゃって、意外と献身的に看病するお嬢様。でも、本来の恋人に偶然会ってしまうジュリー。なんだろう? この子にはとても懐かしいものを感じる。色あせてゆく君の手の中の花束、波にさらわれていく砂の上の足跡……、この思い出はなんだ? うう……、頭が、頭が痛い! なにかを思い出しそうなのに思い出せない!!
「私のことを思い出して私と一緒にいるよりも、あのお嬢様とのほうがジュリーは幸せになれるわ。私のことは忘れたままで、幸せになって」
なんちゃって身を引く恋人……。

なーんてね。まー、お約束としては、なにか事件が起こってお嬢様の嘘がばれ、同時にジュリーの記憶も戻って元サヤに、ってハッピーエンドですかね。シリアスものならお嬢様は死んじゃうとか。
当時の少女漫画って、なんであんなに記憶喪失とか精神を病むとかが多かったんでしょうか。お話をドラマチックに盛り上げるためのアイテムとして結構安直にそんなエピソードが出てきたような気がします。

と、誤訳(なのか?)からそんな妄想が膨らむほどこの歌詞は少女漫画チックですが、こんな内容から「昭和の女性像」とか考察は無理。相手の「you」はその少女漫画的キラキラワードを並べるためにとりあえず設定された恋人でしかありませんしね。
まー、東西の別なく、当時の少女たちは、星や花や涙や砂浜とかとかのキラキラしたアイテムに弱く、自分を永遠に愛し続けてくれる王子様との恋に憧れているものだと「思われていた」ということでしょうか。「外国」というものに、女であってももっと自由に生きられる理想の世界を夢見ていた日本の少女だった私にはちょっと残念な話ではありますが、普通に考えれば、「外国」であっても、当時の日本と同じような女の生き方を縛る男たちによる女性幻想があったのでしょうし、もしかしたら日本よりももっと大時代的な男尊女卑な文化もあったのかもしれません。

日本では「中性的」と言われていた容姿のジュリーは、そのために、男側から一方的に押し付けられる女性幻想が含まれる歌を歌っていても、どことなく女の側に寄り添っていてくれるというイメージがあったんじゃないかと思いますが、ヨーロッパではどんなふうに見られていたんでしょうか。
そのへんも当時のヨーロッパでのジュリーを知っている海外ジュリーファンに聞いてみたいところです。


てなところで、今回の曲はおしまいとさせていただきます。今回は予定どおりサクッといきましたね。

ジュリーのソロデビュー曲「君をのせて」から1985年の「灰とダイヤモンド」までを収録したベストアルバム、「A面コレクション」はこちらからどーぞー



で、裏解釈ですが……今回は難しいのよー。


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《その2》からの続きです。

と、ここまで、百恵ちゃんの「プレイバックPart2」まで巻き込んで、「勝手にしやがれ」の歌詞をディスりまくったわけですが(この世界が大好きという方には大変申し訳ありませんでした)、この、女の敵のような男の歌をジュリーはどういうふうに歌ったかというと、にこにこしながら、ひたすら陽気に、両手を上げて妙な踊り(すまんジュリー)まで付けて歌ったんですよ。スーツを着た大人の男が両手上げて踊るとか、普通はやりません。超ふざけてます。これは、「ワンマンショーで」「朝までふざけ」ている男ということですよね。

「週刊現代」の鼎談で木崎氏は「実は『危険なふたり』のときのようなフニャフニャした歌い方をするのではないかと不安だったんです。(中略)ところが出だしの「壁ぎわに寝がえりうって〜」からビシッと男らしく歌ってくれたので、びっくりしました」と言ってるんですが、「男らしく」? 「ビシッと」???
いやいやいや、あれは充分「フニャフニャ」でしょうよと思うんですが、ここでもまた、男たちと私の受け取り方は違っているようです。まあ、「危険なふたり」のような甘さはないですから、それを「フニャフニャ」と言ったのかもしれませんが、「ビシッと男らしく」というのとは違うような気がします。
私は、「「阿久悠氏時代」の概要のような…」のエントリの中で、ジュリーは「かっこ悪い男がかっこいいと思っている男はかっこ悪いということをわかっているかっこいい男」(ややこしくてすみません)を演じようとしたんじゃないかと書いたんですが、この「勝手にしやがれ」を「ビシッと男らしく」歌ってしまったら、単に「かっこ悪い(ところを隠さない)男はかっこいいと思っている男」じゃないですか。歌詞の中の「カッコつけさせてくれ」って言っている姿そのまんまですよね。言葉で「カッコつけさせてくれ」って言ってる時点でそれはもうかっこ悪いわけですから、それをそのまま歌ったら恥ずかしすぎる。
というわけでの、にこにこ(ニヤニヤ?)笑いながら、無理にでも陽気にふざけている男として、ジュリーは歌ったんじゃないでしょうか。
なので、木崎氏が「ビシッと男らしく」と感じたとすれば、それは「迷いなく」ということじゃないかと思います。「俺って情けないな〜」という歌い方で情けなさを表現するのではなく、「俺、こんなに情けないんだぜ。ドヤァ!」って感じですかね。そういうふうに歌うことで、下手をすれば演歌的にじめっとなりそうな世界をポップに表現できたんじゃないかと思います。
まー、大野克夫さん作曲のゴキゲンなピアノフレーズから始まるアップテンポな曲調だし、むしろそう歌うしかなかったんじゃないかと思うんですが、そういうことってプロデューサーとは歌う前に打ち合わせしたりしなかったんでしょうか。
「勝手にしやがれ」のレコーディングは、ジュリーがグアムから帰ってきてすぐ、しかも風邪気味だというのに行われたものということで、当時の過酷なハードスケジュールが垣間見えますが、もしかしてグアムからの移動中に、作曲の大野さんとは打ち合わせしていたのかもしれませんね。

木崎氏は「(「ワンマンショーで〜」というフレーズは)「さすがにこれはジュリーも恥ずかしいだろう」と勝手に思っていたのですが、すごくうまく歌ってくれた。」と言っていますが、これもまた「??」です。逆に「朝までふざけようワンマンショーで」というフレーズは、この歌詞全体の中で唯一の恥ずかしくないところじゃないですか? 他の部分は全部恥ずかしい。最後にこのフレーズがあるおかげで「勝手にしやがれ」は救われていると言ってもいい。これだけは最後に「ビシッと」決めることで、ジュリーはこの曲を「なにもかもわかっているかっこいい男」として歌うことができたんだと思うんですよ。
それまでは、上から目線だったり、しょーもない言い訳をしたりしていたのが、ひとり(ワンマンショー)になっても、女がいたときと同じように「朝までふざけよう」ってことは、自分が「ふざけて困らせた」ことをちゃんとこの男はわかっているんです。そして、それは女に対してだけふざけていたのではなく、こういう生き方しかできない男なんだと言っているわけですね。
まー、清々しいほどのクズ男ですわね。そこまでやられたら、女のほうは「あ〜、もうあんたはそのまま死ぬまでふざけてれば? 付き合いきれないけど」と苦笑いしつつ出て行くしかないですよ。
恋愛関係においては、ふたりの人間の感情のやりとりの結果、お互いが満足できるようにどっちも変化していくのが理想だと思いますが、この男は「俺は変わらないぜ!」とビシッと言い切っているんですよ。もうどうしようもないです。
最大限好意的に解釈すれば、出て行く女が未練を残さないようにという優しさでもある。そりゃもう、晴れ晴れとかっこよくドヤ顔で歌うしかないでしょう。

木崎氏はなんでこれを「恥ずかしい」と思ったのか。そこまで開き直るのは恥ずかしい、とか? いやいやいや、ここでヘタに悲しい心情とかを吐露されたら、もうほんとに演歌の世界になっちゃうじゃないですか。阿久悠氏が言うように「ワンマンショーを〝気取る〟」というところがカッコつけすぎ? それも、上で言ったようにここは気取ってなんぼなシーンなので、恥ずかしがってる場合じゃないです。
もしかして「ワンマンショー」が、歌手であるジュリー本人と直結する言葉であるために、「さすがにこれはジュリーも恥ずかしいだろう」と思ったのかもしれません。しかしね、これをジュリーが最後にかっこよく決めることで、聴いているほうは、それまでのなんだかダメーな情けない男の話から離れて、「あ、これはジュリーのワンマンショーなんだね!」と、「歌手ジュリー」が目に入る仕掛けになっているんです。
いわばダブルミーニング。
これはアレですよ。バンドのライブで「今夜は朝まで帰さないぜ」って客に向かって歌うやつ。歌詞の中では相手の女への口説き文句ですが、それを客席に向けて歌うことで「今夜は朝まで続けたくなるような最高のライブをやるぜ」「おまえらも帰りたくないよなー、イエー」って煽る、あのパフォーマンスと同じです。
女に出て行かれた男がワンマンショーを気取って朝までふざけているという物語の結末であると同時に、「ジュリーのワンマンショーで朝まで一緒にふざけよう」とお客さん(テレビの視聴者)に呼びかけているんです。

ジュリーはこの時点でデビュー10周年。ライブのプロですからね。客を煽ることのできる、こんなおいしいフレーズを恥ずかしがるはずないじゃないですか。最後にカメラ目線で手のフリ付きで「ワンマンショーで〜」と決めることで、たった1曲を何時間ものワンマンショーを観たように感じさせ、実際にジュリーのライブに行ったことのある人なら、そのステージでのジュリーのあれやこれやを思い出してぽわわ~んとなるって寸法ですよ。
そして、実際にライブでもこれを歌うんですよ。「ワンマンショーで〜」って、まさにワンマンショーで。しかも、「あ〜あ〜〜」と、ジュリーと一緒に壁塗り(と言われている両手を上げてゆらゆらするフリ)もできる。これが、実際やるとすごく楽しいんですよ。
本当によくできた歌詞です。そして、それを恥ずかしがったりせず、即座に自分に引き付けて歌ったジュリーの素晴らしさったらありません。

さらにジュリーのあの衣装と帽子投げ。
中学生のころの私は、正直あの衣装はあんまり好きではありませんでした。あの衣装のせいもあって、ジュリーがおっさんに見えたところもあると思います。だって、以前はヒラヒラフワフワした女の子が着てもいいような服にチャラチャラアクセサリー付けまくって、髪ももっと長かったんですよ。いわば若者の格好でした。それに比べて、いくらクリーム色とはいえ、形は正統派なスリーピースだし、ネクタイまで締めている。ジュリーも他のおっさん歌手たちと同じようにちゃんとした格好をするようになっちゃったのか……色は派手だけど、まあ、そこはジュリーだからね、とか思っていたように記憶しています。
いやほんと、すみません。
あの格好をジュリーは、ホストクラブのホストの格好だったんだと言っていました。そして、当時ホストというのは差別用語のようなもので、あえてそういう格好をすることで、きわどいところを狙ったんだと。たぶん、当時は女の(それもあんまり上等でないとされていた)職業であるホステスの男判ということで、ホストというのは普通の男よりも下に見られていたということじゃないかと思います。
「勝手にしやがれ」を歌うにあたって、男の中でも差別されている存在であるホストの格好をすることによって、女に対する超上から目線のこの歌を、なんとか女性の共感も得られるものにできないかと模索した結果がホストだったということでしょうか。女の側に寄り添うことができるのは、男の中でも差別されている男だけですからね。
まー、単に「ジュリーがホスト!? きゃ〜〜〜!」というウケを狙っただけかもしれませんが、しかし、あれがホストの格好だとわかった人って、当時どれぐらいいたんでしょうか。田舎の中学生だった私は全然わかりませんでしたよ。上に書いたように、むしろ「ちゃんとした格好だ」と思ったぐらいです。残念!
たぶん、都会で夜遊びしている大人の人たち、ジュリーに近い人たちの間ではすぐにわかったんでしょう。いわば業界人向け? 「お、ジュリー、ホストになっちゃったのか〜」「俺にもサービスしてくれよ」なんつって、業界のおっさんたちも大喜び、とかね。すごくありそうだ……。レコード大賞の審査員は業界の偉い人たちなわけですし、そこにアピールできたとすれば、それはそれで成功だったのかもしれません。

そして、ジュリーと言えばこれ!といまだに言われる帽子投げ。これはもう、子供みんなが真似したぐらい大成功のパフォーマンスだったわけですが、これも「さよならをいう気もない」の金キャミと同じように、じっくり聞くとイラッとする歌詞から目を(耳を?)逸らさせるために非常に有効でした。
事実、歌詞の内容をよくよく考えるとなんだかイラつくわーと中学生のときから思っていた私も、テレビにジュリーが出て「勝手にしやがれ」を歌っているときは、「わー、こっち見た!」「いつ帽子投げるのかなー」「投げたー!」「きゃー、指差した!」と、そんなことばかりに気が行って、ちゃんと歌詞なんか聞いちゃいなかったと思います。ていうか、今でも昔のジュリーが「勝手にしやがれ」を歌っている動画を見ていると、そんなふうになってます。
きゃ〜〜〜!
カメラ目線とカメラに向かって帽子を投げるというのは、そういうふうにすればテレビの向こうで観ている人たちは「自分を見てくれた!」「自分に向かって投げた!」と思うんじゃないかと考えたと、ジュリーは言っていました。
大成功ですよ! まんまとその術中にハマった子供がここにいます。
それに、カメラが映す順番を歌う前に聞いておいて、そのとおりにフリをし帽子を投げることをやり始めたら、次第にテレビ局のほうから、ジュリーが歌う前にはどのタイミングで投げるのかと聞いてくるようになったそうで、テレビ局のスタッフにとっても、それはすごくエキサイティングなことだったんじゃないでしょうか。
それまでの歌番組は、歌手が歌っているところをカメラが勝手に映して、勝手にテレビに流す、という形が普通だったのだと思います。歌手に対して、どう歩けとかどっちを向けとかの指示はテレビ局のほうからあったんでしょうが、歌手のほうからテレビの仕組みの中に食い込んできて、自分のパフォーマンスに利用しようとするなんて、ジュリーがたぶん初めてだったでしょう。
「さよならをいう気もない」のところでも書きましたが、そんなジュリーのスタンスは、新しいものを求めていた当時のテレビ界に喜ばれ、その後のいろんな伝説的なパフォーマンスが生まれたんですね。

…と、はあ〜〜、長かったですが、なんとかこの有名曲「勝手にしやがれ」を書き終わりました、かな? なんだか書き足りないような気も、言い過ぎたような気もしますが、こんなに長くめんどくさい文章をここまで読んでくださって、ありがとうございました。

《裏解釈》は、サクッと気軽に読めるお話にしたいと思います。



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《その1》からの続きです。
男同士だけがわかりあえる世界についてから。

映画「勝手にしやがれ」の最後では、ベルモンド演じるミシェルが死ぬ間際に「まったく最低だ」と言い、それに「今何て(言ったの)?」と聞いた彼女のパトリシアに、警官は「〝あなた〟はまったく最低だと(彼は言った)」と言うんですよ。
この台詞の食い違いで、このラストシーンは謎とされ、さまざまな解釈がされているようですが、いろいろ考えてみるとおもしろいです。
警官は顔が映っていないので、その人の台詞はいわば世間一般の声代表と言ってもいいでしょう。警官が故意に「あなたは」と言い換えたのか、無意識に自分の解釈を加えてしまったのかは問題ではありません。ミシェルの「最低」はなにに対してなのかわからない言い方だったのに、世間の人たちは「愛してくれている男を密告するなんて最低な女だ」と思うに違いない、ということなんですね。パトリシアは、殺人犯として指名手配されているミシェルの居場所を警察に教えるという、一般市民として当然のことをしただけなのに、しかも、事前に刑事からミシェルから連絡があったら知らせるようにと言われていたにも関わらず、そのとおりにしたら「最低な女だ」と責められる。
ここで言う「世間」というのはほぼ男社会のことです。男同士だったら、ミシェルのめちゃくちゃな生き方も理解できる。しかし、女であるパトリシアは理解することができずに、ミシェルを死なせるという最低なことをしたのだ、ということですね。
なんというミソジニー(女性嫌悪とか女性蔑視のこと)
ミシェルと警官は敵対する関係であるはずなのに、男同士であるというだけで理解し合える。犯罪者とそれを取り締まる警察という敵対関係よりも、男と女の分断のほうが大きいと言っているんです。
しかし、その後のパトリシアの「最低って何のこと」という台詞は、「どうして私が最低なの?」という疑問とも、ただ単に「最低」というフランス語を知らなかったので意味を聞いているだけとも取れるんですが(パトリシアはアメリカ人なのでそれまでもミシェルとの会話中ちょいちょいフランス語の言葉の意味を聞いている伏線があります)、なんにしろ、映画としては、ミソジニーな男社会に疑問を投げかける形で終わっていると私は解釈しました。
ミシェルが「最低だ」と言う前にする「しかめっ面」の表情の意味は警官にはわからないはずですし、男同士だというだけで「わかるわかる〜」なんてことはないよってことを示唆しているんじゃないでしょうか。本当にそうだとしたら、1960年にして巨匠ゴダール、その問題提起は素晴しいですね。

が、そんな映画からタイトルを拝借したジュリーの「勝手にしやがれ」は、どうもそのホモソーシャルにがっつり乗っかった世界観のように感じられます。
阿久悠氏は、この歌詞について、「一九七〇年代の男と女の気分がよく出ていると思う。」(「歌謡曲の時代」)と書いていますが、ちょっとちょっとー、男と女を一緒にしないでよーと言いたくなります。
だいたい、この歌詞に出てくる女の様子は、語り手の男の主観でしかありませんからね。
「悪いことばかりじゃないと想い出かき集め」ってのも、別にそんなことは思ってなくて、「なるべく金目のものは持って出なくちゃ」つって、「鞄につめこ」んでるだけかもしれないし、「ふらふら行く」のも、さも女が泣きながら歩いているふうな描写になっていますが、単に荷物が重くてまっすぐ歩けないだけかもしれないし、家を出られた嬉しさで「ふわふわ」歩いていたのかもしれないじゃないですか。
この「想い出かき集め」たり「ふらふら」歩いたりっていうのは、女は男と別れるのがつらいのだけれども、どうしようもなく、悲しみつつも出ていくのだと思いたい男の願望が反映された描写ですよね。すっかりきっぱり自分が嫌われたとは、男は思っていないんです。
そんな、まだ自分のことを愛しているはずの女ですから、支配権所有権を行使してもいいというわけで、「行ったきりならしあわせになるがいい」と上から目線で言ってますが、余計なお世話です。もう、こんな男と別れられることだけですでに幸せになってるよ!と言いたくなりませんか? なりますよねっ! きーーー!

「週刊現代」の鼎談の中で、マネージャーの森本氏が、娘さんの結婚披露宴で「勝手にしやがれ」を歌ったことを「不謹慎だ、と思うでしょう。でも、父が娘を送り出す歌にすると、ドンピシャにはまったんだよね(笑)。」と言っていました。「余談ですが」と言いながら「(笑)」付きで語られた話ですが、これを読んで、私はずっと「勝手にしやがれ」に抱いていたモヤモヤイライラの正体がわかったような気がしました。
この歌詞の男は、女のことを対等な存在とは思っていないんです。まさに父と娘の関係のように捉えている。
「行ったきりならしあわせになるがいい」とか、娘の幸せを願う昔気質の父親だったらこんなふうにも言うかなーしょーがないなーって感じなのが、それをパートナーであるはずの男が女に対して言うとか、なに「なるがいい」って、おまえが「許可」してんの? どこにそんな権限あると思ってんの?? その無意識の支配者ポジションが、イライラ通り越して怖いです。
そして「戻る気になりゃいつでもおいでよ」ですが、これも親が娘に向かって言う言葉とすれば、わからないこともない。結婚という選択が間違いだったとわかったら実家に戻ってきたらいいよ、と言ってもらえることは娘にとっては、まあ心の拠り所にはなるでしょう。昔は一度嫁に行ったらもう二度と実家の敷居は跨ぐな、と家長は言うべきとされていましたが(いつの時代だ)、「娘ちゃん大好きな優しいお父さんはそんなことは言わないよ〜」「いつでも帰ってきていいんだよ〜」っていう、ものわかりのいい父親のお言葉ですね。キモいですが、まー百万歩譲って親ならしょうがない。
しかーし、この歌詞の場合、それを言っているのはその間違った選択肢である男のほうなんですよ。女はこれ以上そいつとは暮らせないと愛想を尽かして出ていくってのに、なに「戻ってきたら許してやる俺って優しい〜」ってな自己満足に浸ってんですか。結婚する娘は別に実家がイヤで出ていくわけじゃないですけど(そういう人もいるかもしれませんが)、この歌詞の女はその男と暮らすのがもうイヤになったから出ていくんですよ。わかってますか? わかってませんよね。
さらに、「せめて少しはカッコつけさせてくれ 寝たふりしてる間に出て行ってくれ」。これも結婚式当日の朝の父親のあるあるじゃないでしょうか。娘を嫁に出す男親のつらい気持ち描写で、娘を持つ男同士の「わかるわかる〜」の大定番ですが、大人なんだからちゃんと話しろよ。「カッコつけさせてくれ」って言ってますが、全然「カッコ」ついてません。こんなことされたらもう、娘だろうが女だろうが「はあ〜〜」と溜息ついて出ていくだけですよ。呆れて。

こんなふうに「勝手にしやがれ」は、森本氏の言うように、父が娘を送り出す歌にすると、いいも悪いも含めて「ドンピシャ」なんですが、これを「男と女の気分がよく出ていると思う」なんて意識で作っているから、女の側、それも今の時代の女から見ると、不均衡でおかしなことになってるんじゃないですかね。
でも、男たちはこれをヘンだとは思っていない。父と娘にしたって、父親は娘を支配できるという意識は問題なわけで、まさにそれと同じ問題を男と女の関係にも持ち込んでいるだけだというのに、そのおかしさにに気付いていないんですよ。

だいたいね、この歌詞の大前提である、女は男のことを愛している(けど出て行く)というのは、演歌と同じく男の願望ですよね。自分がとことん愛想を尽かされたのだとは思いたくない。
女は無条件に男のことを愛しているのだけれど、男が「ふざけて困らせた」り「愛というのに照れてた」りという、素直じゃない態度でいたために、(愚かな)女はそれを「愛」だとは理解できず、自分の愛に男は応えてくれないと「勘違いして」出ていってしまったと、男は思っているわけです。男同士だったら無言でわかり合えるこの気持ちを、女はわからない。
もしその女が戻ってきたとしたら、その「勘違い」が正されて、「愛というのに照れてただけ」だったんだねと女がわかってくれたからだと、男は思うだけです。だから、自分の態度は改めなくてもいい。以前と同じようにふざけてても大丈夫。

は~~、もう! なんだかもう!!
こんな男のところには戻らなくてよろしい! てか、戻っちゃダメー! と言いたくなりますが、この曲のアンサーソングと言われている山口百恵の「プレイバックPart2」の最後では、「私やっぱり帰るわね」つって、帰っちゃうんですよね。
なぜだ!!

ワンコーラス目はいいんですよ。「真紅(まっか)なポルシェ」で「気ままにハンドル切」って「ひとり旅」とか、かっこいいじゃないですか。やっぱり男が窓から見ていた「ふらふら行く」女は、単に駐車場まで運ばないといけない荷物が重かっただけなんですよ。それに「馬鹿にしないでよ そっちのせいよ これは昨夜の私のセリフ」ってことは、ちゃんと言いたいこと言って出てきたんですね。よかったよー。しかも、「女はいつも待ってるだけ」とか言って支配してこようとする男に対して、「坊や、いったいなにを教わってきたの」って、そっちのほうがなにも知らない子供じゃん!と、ずどーんと地面に叩きつける勢い。
言ってやれ言ってやれ、どんどん言ってやれーと拳振り上げて応援する勢いですが、最後のフレーズ「私だって、私だって、疲れるわ」で、ちょーっとイヤな予感がよぎります。
え? そこ、「怒る」じゃなくて? 「馬鹿にしないでよ」って強気できた女が、ここで「私のことも少しはわかってよ」って、男に泣き付いてるような、そんな雰囲気です。そこを歌うときの百恵ちゃんの、ちょっと上目遣いになるような甘えてるような歌い方のせいもあるんですけどね。
そのイヤな予感は的中して、ツーコーラス目の最後では結局「私やっぱり、私やっぱり、帰るわね」ってなっちゃうので、この「疲れるわ」の、女の弱さをチラ見せする百恵ちゃんの表現は大正解なんですが、そもそもなんで「帰る」んですか? しかも「強がりばかり言って」支配しようとしてくる男に対して、「本当はとても淋しがり屋よ」と先回りした理解までしてやるとか、これって、完全に男に都合のいい女になっちゃってますよね。残念だー。

「プレイバックPart2」がリリースされたのは、1978年5月。「勝手にしやがれ」のちょうど1年後です。車を自分で運転して(しかもポルシェ!)、交差点で文句つけてきた隣の車の男に怒鳴り返すぐらいの気の強い女であっても、愛してくれている男のことは許してあげるべき、というか、そもそも女とはそういうものでしょ、というのが一般的な認識だったんでしょう。まさに男に都合のいいホモソーシャルな縛りから、女性ボーカルの歌ですら自由になれないでいたわけです。
昭和の限界か。
この戻った女が男を尻に敷いて思い通りにするっていう未来もありなんじゃない?と言っていたジュリ友さんもいましたが、そうなったらそうなったで、結局は男の母親的な役割に落ち着くことになってしまい、いくら言ってもふざけてばかりの男に対して「いいかげんにして 私あなたのママじゃない」とブチ切れることになるような気しかしません。
この超かっこいい歌詞の「ロックンロール・ウィドウ」は、「プレイバックPart2」から2年後の1980年リリース。ということは、昭和というよりも1970年代の限界だったんでしょうか。
ジュリーの曲も80年代からは、男に都合のいいようなものばかりじゃなくなっていますし、古いタイプの男女を歌う昭和歌謡が広く受け入れられた最後の時代だったのかもしれません。


《その3》に続きます。