もうすでに昨日、楽日で東京公演は終わってしまいましたが、
25日の公演に行ってきました。
音楽劇「探偵〜哀しきチェイサー2 雨だれの挽歌」
自分のメモも兼ねて、ちょこっとですが
感想とか感想になってないこととか、
一応書いとこうかね。

まずね。
先にご覧になってたみなさまのレポを
指をくわえつつあれこれ眺めてましたら、
「パツパツ」とか、
「史上最高のモフ」とか、
「ボタンが飛びそう」とかとかとか、
そんな情報が………。
え〜〜〜。
しかも、初日以降何回か行かれてる方が、
「初日よりもお育ちに」とか。
昼夜2公演をほぼ毎日やって、
どーーしてお育ちになるんですかねっ!(泣
ということで、私はかなーり覚悟して行ったんですよ。
すいませんね。
でも、心の準備をしていかないとね。

で、幕が開いてオープニング。
ストロボ風のライティングで、
コマ落としのフィルム風に、
登場人物たちが看板を持ってあちこち動きまわり、
整列するところ。
…………ん??
ジュリーはどこ??
ここにはいないの?
でも、オープニングなのにいないってことはないはず。
と、よーく目を凝らして探してやっと見つけました。

なんだ、痩せてるじゃん。

芝居を観にいって最初の感想がこんなんで、
誠に申し訳ありません。
でも、ほんとにそう思ったんだものーーー。
衣装がスーツのせいか、
肩から背中にかけてのラインがシュッとしていて、
かっこいいんですよ。
いや、ほんとに。
ていうか、私ったら、前情報で、
どんだけの状態を期待(?)してたんでしょうか。
まあ、想像してたのにくらべればモフってない、
ってとこでしょうか。
椅子に座ると、お腹とか太ももとか、
ぱつーんって感じではありましたし、
横を向けばしっかりみっちり
お腹は突き出しておられましたしね。

でもねでもね。
お顔がすごく綺麗に見えたのは、
あれはお芝居だからメイクしてたせいでしょうか?
時代設定に合わせたちょっとレトロな髪型も、
似合ってましたしね。
ネット上では不評のようだった撫で付けたスタイルも、
私は結構かっこいいと思いましたよ。
それが、後半でハラリと乱れるのがまたよろしいしね。
衣装のスーツのせいか、
時々「DABADA」の沢田課長が見え隠れし、
たまーに、城戸先生も見えました。
ええ、見えましたとも。私の目には!
あとね、バーのマスターをやってる時は
上着を脱いでシャツにベストって姿なんですが、
その時、アームバンドをしてるのが、
個人的にツボでした。
かっこよかったです。

なんていうかねー。
ジュリーは身のこなしがかっこいいんですよ。
肩からくるっと振り返るところとか、
斜めに相手に視線を向けるところとか、
ちょっと猫背な後ろ姿で歩き出すところとかねとかね。
本当にちょっとした仕草なんですが、いちいちかっこいい。
うわーん、ジュリー!!

お話は一応ミステリーなので、
筋は観てのお楽しみですが、
ジュリー演ずる新さんは、
酸いも甘いも噛み分けた、
なんでもお見通しの探偵さんで、
自分が直感で分かってしまった
真相を確かめるためにいろいろ調べ、
その上でヒロインを助けるために、
ひと肌脱ぎます。(あ、服は脱がないですw)
ヒロイン演ずる南野陽子さん、お綺麗でした。
気の強い女性って役柄で、
場面ごとに違うレトロな衣装が(かなりな早変わり?)
とても似合ってました。
私の後ろの席の男性方が、休憩時間に
「ナンノいいねえ、ナンノ」
「こんなにいいと思わなかったよー」
とか言ってました。
ナンノのファンの方達でしょうか。

私は1回目の音楽劇「探偵」は観てないので
わからないんですが、
あの新さんのキャラは前回と同じなんでしょうかね。
お約束をきっちり守りつつ、
最後はちょっと甘めな泣かせる展開もあり、
ハードボイルドの基本な感じ。
男の人でこういうの好きな人いるんじゃないですかね、
って感じのお話でした。

ジュリーの歌声は安定の素晴らしさ。
振り付けが付いた歌は1曲だけで、
基本どの曲も渋く歌い上げる感じでしたね。
煙草をくわえたまま1曲歌いきったのはびっくりしました。
どうやってるんだ、あれ。
最後の「雨だれの挽歌」では、
私の肉眼では見えなかったんですが、
泣いてたみたいでした。
照明ともあいまって、圧巻でした。

その最後の曲が終わって幕が降り、
出演者が勢揃いしてのエンディングが終わっても、
拍手が鳴り止まず、ダブルアンコール。
ジュリーの嬉しそうな笑顔がよかったです。


と、簡単ですが、音楽劇レポはこんなところでしょうか。
この後は、札幌、大阪、広島〜と、あちこちまわりますね。
これからは、またPCの前で各地のみなさまのレポを
楽しみにしたいと思います。

各地でまた美味しいものを食べて……(いや、なんでもないです。



今、「哀しきチェイサー」と言えば、
絶賛上演中の音楽劇
「探偵 哀しきチェイサー2 雨だれの挽歌」でしょうが、
申し訳ないですが、ここでは、
78年のテレビドラマ「七人の刑事」で、
ジュリーがゲスト出演した回の
「哀しきチェイサー」をネタにして、
腐女子のことやらフェミニズム的なことやらを
ぐるぐる考えつつ語っております。

音楽劇のレポを期待して検索してくださった方、
すみませんすみません。
私は、25日に紀伊國屋サザンシアターに観にいく予定なので、
そちらの方は観たらなんか書くことと思います。

で、78年テレビドラマの方の「哀しきチェイサー」ですが、
ドラマの内容自体については、
「その1」で長々と突っ込みつつウザく語っております。
よろしかったらそちらからお読みくださいませ。
(そっちも超長いけど)
この「その2」では、
そのドラマの演出をした久世光彦氏と脚本の栗本薫氏、
両氏のジュリー萌えの要素やらなんやらから、
70年代当時の腐女子的思考(嗜好)と、
現代のBLを楽しんでいる腐女子達の違いなどを、
独断で語り倒そうかと思います。
お断りしときますが、
私はフェミニズムの研究者でもないし、
客観的なデータを取っているわけでもないので、
これから長々と語ることは、完全に私の感想というか、
腐女子文化に対する主観的な考えにすぎません。
ま、こんなふうに考えてる人もいるってことで、
ご了承ください。
相変わらず超長文です。すみません。


さて、78年のテレビドラマ「哀しきチェイサー」における
ジュリー萌えについて。

前回のエントリで、
ジュリーの役柄がアホ子キャラであることが、
夢のキャスティングだったと書きましたが、
それはなんでか?

それは、ジュリーが空っぽだから。

たぶん、ジュリー萌えの方たちにはこのひと言で、
「そうそう、ジュリーはそこがいいのよねー」と、
共感が得られることと思いますが、
自分の中で整理するためにも、
ジュリーの「空っぽ」ということについて、
少し説明しとくかね。

ジュリーは、約3分間ほどの歌の世界を、
その都度見事に表現して見せてくれます。
コンサートで立て続けに20曲もその調子で歌われると
くらくらします。
ジュリーの切り替えが見事すぎて。
3分ごとに違う映画やドラマを
20本見せられてるようなもんです。
しかもね、ジュリーはその世界を
こちらに見せるだけじゃなくて、
自分もその世界に入り込んでしまうんですよ。
あれは、そうしようと思ってやってるのとは、
ちょっと違うような気がします。
ジュリーにとって、歌うっていうのはそういうこと。
その歌の世界の人になる。

唐突ですが、
2月に放送されたNHKの吉田拓郎さんとの対談番組で、
拓郎さんが「矢切の渡し」を話題に出して、
「この『連れて逃げてよ』は女なんです。
 で、次の『ついておいでよ』は男で、
 細川たかしじゃないんですよ。
 すごいですよね!!」
と、興奮気味に言っていたのに対して、
ジュリーはどうもその話題に乗れないようで、
咬み合わないまま話はレコード大賞のことに。
ちょっと、見てる方はあれあれ?ってな場面でしたね。
ジュリーは自分が特定の人のことをあれこれ言うと、
いろいろ差し障りがあるかもしれないから、
話を逸らしたんじゃないかと、
私は最初は思っていたんですが、
もしかしたら、ジュリーは拓郎さんが
なにを「すごい」と言ってるのか、
わからなかったんじゃないか疑惑が、
この原稿を書いていて湧いてきました。
ジュリーは拓郎さん言ってることを
「そんなの当たり前じゃないか? すごい? なんで?」
とか、思ってたってことはないですかね?
女が言っている設定の歌詞なら女になって歌うし、
男ならその物語の中の男になって歌う。
「歌うってそういうことじゃないのか?」って。
まあ、わからなかったっていうか、
拓郎さんが「矢切の渡し」に興奮してるのを見て、
「あ、自分とは違うんだな」と思ったのかも。
んで、それを説明しようとすると長くなるからね。
(この文章のようにw)
だから、「あの人、いい人ですよ」とか言って、
話題を変えちゃったのかも。

そんなふうに妄想しちゃうくらい、
ジュリーにとって歌うということは、
そういうことなんではないかと思わされます。
その歌の中の人物になりきってしまう。
ジュリーが歌っている時、そこにいるのは
ジュリーじゃなく、「沢田研二」でもなく、
ボギーに憧れてるチャラ男だったり、
痩せ我慢して旅立つサムライくんだったり、
恋人が出て行くってのに寝たふりしてるダメ男だったり、
出会ったばかりのセクシーイブにチェックインだったり……。
泣いたり笑ったりする表情も仕草も違う人物が
歌の数だけそこに立ち現れます。
共通しているのは、ジュリーのあの美しい外見だけです。
中身はその都度入れ替わる。
とすると、ジュリーという人の実態はその外見だけであって、
中身はないのではないか?
また、ジュリーって人は、
その中身を入れ替えることをなんのためらいもなく、
軽々と、むしろ喜んでやっているようにも見える。

だから、ジュリーは空っぽ。

いやしかし、歌ってない時だってあるし、
いろんなことを考えたり、私生活だってあるでしょと
思われるでしょうが、
それをしているのは、
「ジュリー」ではなく、「沢田研二」なんですよ。
一方、歌ってなくとも、
テレビや雑誌でファンの期待に応えるような
話をしたりグラビアでにっこりしているのはジュリーであり、
それをさせているのが「沢田研二」であるという、
そんな仕組み。
ややこしい。
元々はそんなに意識してやってなかったのかもしれず、
若い頃(20代前半ぐらいまで?)は、
テレビなんかでも素の「沢田研二」が出てるなあと
思われることもあって、混乱するんですけどね。

若くてきれいでかっこいい、
特に70年代のアイドルと呼ばれる人達は、
その外見が重要視され、
中身はまわりの大人たちが、
こうすれば売れるだろうというものでもって作り上げる。
歌も作られたイメージに合わせたものを与えられ、
歌わされることが多かったと思いますが、
(今のアイドルグループの子達も同じかな?)
ジュリーの特異なところは、
それを本人がかなりな大人になっても
続けていたところじゃないかと思います。
普通の人は、20歳ぐらいまでは、
その外見だけを求められ、
他人が作った中身を受け入れていても、
大人になるにつれて、
やっぱり中身は「自分」で満たしていきたくなる。
それがうまくいけばアイドルからアーティストになり、
うまくいかなければ芸能界から消えていき、
こんなんやってられないとなれば、
百恵ちゃんのように引退ということになる。

それがジュリーは、
持って生まれた素質なのか、
芸能界で過ごすうちに身に付けた能力なのか、
(両方っていうか、
 元々の素質が芸能界で磨かれたんじゃないかと思いますがね)

ジュリーという器を空っぽのままにして、
他人が与えてくれる中身を受け入れることを、
20歳を過ぎても続け、
おそらく「勝手にしやがれ」以降は、
自分でも意識してそれをやり始めた。
(あ、金キャミの「さよならをいう気もない」からか?)
空っぽなジュリーを「沢田研二」で埋めるんじゃなく、
「沢田研二」である自分は、
それまでジュリーに中身を与えてくれていた
まわりのスタッフの側にまわって、
いろんなイメージを作る側になったっていうか。
今でこそ、「キャラを作る」ってんで、
やってる人も少なくないでしょうが、
かなり早い時期に、
自分で自分をプロデュースするということをやり始めた、
芸能人のひとりだったんじゃないかと思います。
そうして意識的にやり始めてからは、
まわりのスタッフたちも、
ジュリーと「沢田研二」を分けて考えるようになって、
見る目も変わっていったのかもしれませんが、
本人が無意識でやっていて、
まわりもそれをどう扱っていいか混乱していた
20代前半ごろまでは、
ジュリーはかなり特殊な人物のように
思われていたんではないでしょうか。

並の容姿しか持っていない普通の人間、特に男性は、
ただそこにいるだけだったら、風景と同じです。
(ひどい? でもそうですよね)
それが、たとえば同級生とか仕事相手とかという
関係性があって初めてまわりに存在を認めてもらい、
話をしたりいろんな関わりを持って、
いいやつだとか、ヘンなやつだとか、
中身で評価をされるわけです。
目鼻立ちなんざ、言ってしまえば、
他の人との識別記号ぐらいの意味しかありません。
特に、70年代はまだまだ、
「男は見た目じゃなく中身で勝負だ」
ということが、今よりもずっと強く当たり前に
言われていた時代です。
しかも、学生運動がもにゃもにゃしたまま終わってしまい、
若者たちは自分のアイデンティティを見失って、
「僕って何」とか「限りなく透明に近いブルー」とか言って、
インドに旅立っちゃったり、
フォークソング歌ったりしていたんですよ。
男たるもの、中身がないじゃすまされなかったんですね。

でも、ジュリーは違います。

ジュリーはその美しい外見のせいで、
おそらく子供のころから、
普通の男たちとは違う認識のされかたを
してきたんじゃないでしょうか。
ジュリーはその中身がどうあれ、その外見だけで、
まわりから勝手に「こんな人」と判断されてしまう。
やっぱり人間最初に視覚からの強いインパクトを受けると、
なかなかその印象を変えるのは難しいですからね。
ジュリーの人物像を語る、みたいな
インタビューを読んだり聞いたりすると、
「実は男っぽい」「実は喧嘩っ早い」「実は頑固」と、
「実は」と付くことが多いです。
それって、語られない部分で、
「あんな綺麗な顔して」「女の子みたいなのに」
と思われてるってことですよね?
そんな見られ方に反発を覚えたこともあったでしょうが、
(「この顔が悪いんや」と頬にカミソリを当てたことがあったそうです)
そこは持って生まれた性格なのか、
「ま、しょうがないか」「めんどくせえや」と思ったのか、
自分の意向とは違う他人の視線をそのまま
受け入れることにしてしまったんじゃないでしょうか。
若いころは極端に無口だったってのも、
そのせいのような気がします。
自分の考えを話しても、
「思ってた人と違う」とか、
「そんな顔してそんなこと言うんだ」とか、
そんなふうに言われたりもしたでしょうしね。
(美人は大変だ)
そんなんしてるうちに、
「ルックスで勝負やで」というサリーやピーの誘いに乗って、
まさに外見重要視の芸能界に入り、
ジュリーはどんどん外見だけの存在になっていきます。
その美しい外見だけで、誰にでも愛される存在。
しかも、その中身は歌う歌ごとに、
姿を現すメディアごとにころころ変わる。
空っぽで芯がないから、
その実態は捉えどころがない。
ジュリーラブの元祖、久世光彦氏は、
ドラマ「悪魔のようなあいつ」の企画書で、
「ジュリーはミステリアスで魔的な存在だ」
というようなことを書いてましたが、そりゃそうです。
そういうふうにジュリーは作られてるんですから。

「男はチャラチャラ着飾ったりするもんじゃない」
てな風潮の時に、
まさに外側だけチャラチャラ着飾っていたのが、
ジュリーなわけです。
それも本人はどう思ってんだかよくわかんない様子で。
やらされてるだけのようにも見えるし、
自分から積極的にやってるようにも見える。
でも、その着飾り方に一貫性はなく、
平気で昨日と今日で全然違う格好をしている。
ジュリー本人の考えってどうなってるんだろう??
わからない。
そんなジュリーを見ていると、
「男は中身だ!」思想に取り憑かれている男たちは、
どうにも落ち着かない気持ちになって、
なんとかして自分の納得できる中身を、
ジュリーの中に想定したくなる。
空っぽに見えるのは、もしかして逆に、
普通の人には考えられないような、
激しい感情を内に秘めているからなんじゃ?
ってことで、愛ゆえに殺人を犯し、自分の命も投げ出す、
「そして、愛は終った」「ひとりぼっちのビートルズ」。
いやいや、それこそ自分自身を見失った現代の若者でしょ、
ってんで、なにやってんだかよくわかんない「炎の肖像」。
または、太陽を盗んじゃう中学校教師。
あ、一番最初のドラマ出演らしい「刑事くん」でも、
理由らしい理由がないままに、
事件の参考人の女の子を匿ったりしてましたね。
あれも、「今の若者は」的な話だったと思います。
「今の若者」と言えば「同棲時代」ってドラマもありました。
当時、結婚してない男女が一緒に暮らすなんて、
大人には理解できない若者の最先端でしたからね。
……とまあ、結局、どの人も、
自分がこうあってほしいと思う愛情のあり方や
こうなんじゃないのという若者のあり方や社会的不安を
空っぽなジュリーに注入してるにすぎません。
たぶん、ジュリー自身はなにも考えず、
歌う時と同じように、与えられた役柄をそのまま受け入れて、
その人物になりきっているだけでしょうけどね。

「日本映画[監督・俳優]論」というインタビュー本の中で、
ショーケンは、「琉球の風」で共演したジュリーのことを
「(演ずる時に)「なぜ」という分析力を働かせない」
と言ってますが、そりゃそうですよ。
ジュリーは琉球王になっちゃってるんだから、
その渦中にいる時に、「なぜ」琉球がなくなるのか?
なんて考えはしません。
ただその人物になりきっているだけですからね。
まあ、ショーケンはその後で、
「彼の凄いところは先生たちに、「これがいいんだよ、これをやんなさい」と言われたら、本当に誠実にそれをやる。(中略)自分で生み出すものより、自分を演出してくれる人が見つかった時に最高に映えるんです。」
って言ってて、
なんだよ〜〜わかってんじゃんよ〜〜このこの〜〜
って感じなんですけどね。うふ。

これらの、ジュリーの空っぽさに理由を付け、
それによって自分自身の願望をジュリーに託して
表現したい男たちとはちょっと違ったのが、
「悪魔のようなあいつ」を作った、
名プロデューサー・久世光彦氏です。
久世さんは、ジュリーのミステリアスで魔的なところ、
すなわち空っぽなところが最大の魅力だと気付いた、
数少ない男性のうちのひとりだと思われます。
その空っぽさに理由はいらないんです。
ただ、それがいい。
おそらく久世さんが自分をなぞらえている、
藤竜也さん演ずる野々村さんは、
ジュリー演ずる良ちゃんを、
三億円なんかなくとも、というか、
むしろなんにも持っていない良ちゃんだから、
愛してやまないわけですよ。
このドラマの脚本は、のちに「太陽を盗んだ男」を撮る、
ゴジ監督こと長谷川和彦さんで、
ゴジ監督は、空っぽに理由を付けたい派の男でしょうから、
良ちゃんは三億円を手に入れて、ピッカピカの船を夢見て、
なんとかして空っぽを埋めようとする話になってますが、
久世さんが撮りたかったのは、
三億円があっても誰に愛されても、
空っぽなままの良ちゃんだったんじゃないかと思います。
久世さんはゴジ監督のことを
「彼はホモがわからない」と言ってたようですが、
ホモがわからないというよりも、
その、空っぽなままの男を愛するという男の気持ちが
わかってないと言いたかったんじゃないでしょうか。
野々村さんは良ちゃんの空っぽを埋めてあげたいわけじゃなく、
空っぽなままの良ちゃんと
ポールシーハーパージュニアに行って、
そのまま最期の時まで一緒にいたかっただけなんですよ。
ゴジ監督はドラマのラストは、
撃たれて意識が朦朧となった良ちゃんが、
三億円を強奪した時の警官の服を着て白バイに乗って、
地平線を笑いながら疾走する幻想を見るというふうに、
脚本を書いたらしいですが、
久世さんとしては、そんな良ちゃんが満たされちゃった状態の
終わり方にしたかったはずはありません。
良ちゃんは、
決して自分のものにならない三億円の札束が舞い散る中、
なんにも手に入れられないまま、空っぽなまま、
それでも美しく笑って死んでいく。
それがいい! ってな話のはずです。

さて、ここでやっと栗本薫御大の登場です。
(長かった)
「悪魔のようなあいつ」以外の、
ジュリーを題材にした作品は、
空っぽに理由を付けたい派の男たちが作ったものです。
言ってみれば男の願望。
ジュリーの大半のファンである女の子たちは、
「男たるものかくあるべし」
もしくは、
「顔が綺麗なチャラチャラした若者でも、
 こんな男らしい面もあるんですよ」
みたいな人物を演じるジュリーを
どんなふうに見ていたんでしょうか。
これはもう想像するしかありませんが、
「なんかこれ、私のジュリーと違う」と思いながらも、
普段の歌番組では見られない、
怒鳴ったり殴られたりふてくされたりしているジュリーの
場面場面を心に刻んで、
自分の妄想のネタにするしかなかったんじゃないでしょうか。
まあ、人によると思いますけどね。
なんとなく、どれをとっても物足りない。
帯に短し襷に長し的な感じ……。

そこに登場したのが「悪魔のようなあいつ」です。

ジュリー演ずる良ちゃんは、
それまでの、なんだかどうもしっくりこない中身を注入された、
「あんた誰?」ってな人物ではなく、
空っぽなジュリーそのものです。
それがそのまま「男に」愛されちゃうっていうお話なんですよ。

こ・れ・だー!

と、栗本御大を代表する、
当時の腐女子属性のジュリーファンの姉様方は、
飛び付いたんじゃないでしょうか。
ジュリーは中身なんかなくとも、
その空っぽなままで誰からも愛される存在ってことで、
オッケーなんだよそうなんだよ。
そんなジュリー(良ちゃん)に、
野々村さんもハチさんも白戸警部も、
みんなみんなラブなんだよねっ!
そんなふうに言葉にしてはいなかったかもしれませんが、
概ねそんな気持ちだったろうと思われます。
久世さんが「悪魔のようなあいつ」の放映後の
インタビューで、
「ドラマにハマった女の子達が、
 ドラマでは直接描いていない登場人物達の物語や
 その後の話をいろいろ書いて送ってくるけど、
 どうしてみんな俺と同じ事を考えてるんだと驚いた」
みたいなことを言ってたようですが、(ソース不明)
そりゃそうです。
みんな久世さんと同じく空っぽのジュリーラブなんですから。
もっと言っちゃえば腐女子仲間なんですから!

男たちは、空っぽなジュリーを見ると、
どうでもその中身を想定したくなったのに対して、
女たちは、ジュリーのその空っぽなところをこそ、
愛しているということです。

それはなんでか?

えーとですね。
70年代当時、「中身で勝負だ!」ってな男たちに対して、
女はただ「女」ってだけで
中身を忖度されない存在だったわけですよ。
女は子供が産めればいい、
もっと下世話に言えば、穴さえあればいい。
男=世間の中で、女はそんな存在でした。
「でした」って書いたけど、2013年現在でも、
そんなふうに無意識に考えてる男共はまだまだいっぱいいて、
今の若いフェミニストたちも日々闘ってるわけですがね。
個人個人ではいろんなことを考えてるのに、
女っていう性別に生まれただけで、
中身のないものとして扱われる。
空っぽでいろと言われる。
「女」という器だけを見られる。
そんな世間のプレッシャーや視線に違和感を感じて、
どうにも居心地の悪さを感じ始めた……、
70年代は、女にとってそんな時代だったんじゃないでしょうか。
ウーマンリブ運動とかもありましたしね。
いやしかし、自分はピンクのヘルメットかぶって、
あちこちに乱入して暴れるほどの主張を持ってるわけじゃない。
「これが私だ!」と声高に言うほどの思想があるわけでもない。
中身も好きなように妄想してくれてかまわない。
ただ、自分のことを「女」ではなく、個人として見てほしい。
そんなふうな控えめな主張を持ち始めた女たちにとって、
ジュリーは理想の存在だったんですよ。きっと。

女は中身がなく、「女」という器だけとして存在し、
まわり(男)から見られ、いいの悪いのと評価される。
いわゆる「消費される存在」。
それは、空っぽのジュリーのあり方と同じじゃないですか!
見られるだけのアイドルとしてまさに消費され、
顔や衣装という外側だけで「いい」「悪い」と評価される。
ジュリーはよく「セクシーだ」と言われますが、
それは、ジュリーの存在のしかたが
女性っぽいせいではないでしょうか。
顔は美しいけど、特に女顔というわけではなく、
どうみても男性。
でも、その他人からの視線の受け止め方が、
普通の男とは違う、女性が男の視線を受け止めるような、
そんなやり方をしているように感じられて
混乱し、ドキドキさせられ、
それが「セクシー」ということになっているような気がします。
しかし、そんなように一方的に見られる存在でありながら、
ジュリーは男だから、
「女」と一括りにされることのない、唯一無二の存在。
そんな存在になれたらどんなにいいかってことですよ。
栗本薫は、とある雑誌のジュリーに関する記事で、
「生まれかわることができたならば、男に生まれて──
 彼でありたかった!」
「彼の「存在のしかた」にひかれている」
と、書いていました。
それは、アイドルという見られる存在でありながら、
女のように搾取されない、逆に搾取してやるぐらいの存在。
見る側の男に頼ることなく自分で立つことのできる存在。
その上で、野々村さんのような「男」に愛される。
この理想の存在を栗本薫は自分の中で膨らませ、
「真夜中の天使」や「翼あるもの」を書き、
私達が求めていたのはこれだったんだ!
と気付いた女たちは、JUNEを愛読し、書いたり描いたりし、
腐女子コミュニティを築いていったわけですね。

栗本薫は「翼あるもの」のあとがきで、
「私が恋人の少年を書き、若い歌手を書いていたとき、私はたしかに《彼になりたい》と望んでいた。断じて女性の代用ではなく、むしろ、私にとっては、それが本然の姿であって、少女であることが、何かの欠落それ自体を意味していたのである。」
と、書いています。
そんな流れの中で栗本薫は、
テレビドラマ「哀しきチェイサー」の脚本を書いたわけで、
そこに登場するジュリーが中身のない空っぽの存在、
アホの子であるのは当然と言えます。
(はぁ、やっと話が戻った。長かった)
なにを考えているかなんてわからなくていい、
ただそこにいるだけで、「いいやつなんだよ」というだけで、
愛される存在。
しかも、劇中でほとんど語ることないアホの子ジュリーは、
本当はどんな人物なのか、誰にもわからない。
なので、自分を好きなように仮託することもできます。
理想です。
久世さんは、このドラマのことを数年後に、
「木枯らしの草原を、この二人が一本の洋モクを回し喫みしながら縺れていく回想シーンを撮っていて、私は胸が熱くなり、ちょっと泣いたような記憶がある。」
とエッセイに書いていたそうですが、
あの野々村さんと良ちゃんもこんなふうに撮ってあげたかった
とか思ってたんじゃないですかね。
とすれば、「悪魔のようなあいつ」を見た栗本薫が、
ジュリーという存在を自分の中に取り込み作品化して、
「哀しきチェイサー」という脚本を書き、
それをまた久世さんが見て、ジュリーという愛される存在を
再認識するという、本当に幸せな循環ができたということで、
まったくもって、よかったですね、
と天国に向かって言うしかありません。

よかったですね。


と、ここまでは、ジュリーをネタにした、
70年代のJUNE的腐女子文化の
私なりの分析なんですが、
実は、私はこの、ただ愛されるだけの存在であるジュリーに
自分を仮託するという感覚が、どうもピンとこないんですよ。
自分がジュリーになって相手の男に愛されたいってのとは、
ちょっと違う気がしてならない。
いや、頭ではわかりますし、
当時リアルタイムでジュリーにハマり、
JUNEを愛読していたならば、
栗本薫と同じく自分の女性性に居心地の悪い思いをしていた
女子中高生の私はきっと、ジュリーの方に自分を投影して、
萌えていただろうとは思うのですが。
しかし、今、2013年現在の私は、
野々村さん×良ちゃん、裕也さん×ジュリーよりも、
ショーケン×ジュリーの方により萌えているわけです。

それは、結論から言っちゃえば、
「対等な関係がいい」ということじゃないかと思うのです。

また栗本薫の「翼あるもの」のあとがきからの抜粋ですが、
「男と少年の組みあわせには、父と子、神とその子、造物主とそれにそむくものの影はあれ、いかなる意味でも、平等の位相は見つけられないのである。」
と書いているように、
JUNE的世界の少年愛では、
男同士の対等な関係の上に成り立つ恋愛関係というものは、
少ないような気がします。
(私はあまりJUNEを読んでないので、あくまで印象です)
これはまあ、上でさんざん書いたように、
「女」として愛されることについてのモヤモヤを、
どうにか少年愛に仮託して物語化し、
自分の問題として昇華しようとした結果なわけで、
一方的に「どう愛されるか」に物語の重点が置かれたのは、
しょうがないことだとも言えます。

それが、時代が下って2013年。
男女差別は公的にはないことになっているし、
女性の人権を認めないなんてなことを真顔で言う人は、
まあ、一応いなくなったとされているわけです。
なんかこういうことを言う時に歯切れが悪くなるのは、
無意識のレベルではまだまだジェンダーの壁はがっつり残っていて、
無意識である分そっちの方がやっかいだったりするからなんですがね。
「女」だからといって一括りになんかしませんよ。
個人としての意見も聞きましょう。
あなたはどんなふうな恋愛・結婚をしたいんですか?
そんなふうに世間の方から問いかけてもきてくれちゃったり。
「女」という存在だけでステルスのような扱いを受けることは
一応なくなった(とされている)。
じゃあ、次は男と自分の「関係」を考えようとするわけですが、
そこでぶち当たるのが、
男共は70年代からあんまり変わってないという事実。
対等でありたいという女に対して、
「でも男は子供生めないしー」だの
「体力が違うでしょ」だの
「女の方が楽してるじゃん」だの
そんなこたあわかってんだよ!的なことを言ってくる。
非常〜にウザい。
問題はそこじゃないんだということが、
男共は全然わかってない。
てなわけで、かつて「女」の「理想の存在」を求めて
JUNEにハマっていたのと同じように、
今度は、男女の「理想の関係性」を求めて、
今の腐女子たちはBLにハマっているんじゃないでしょうか。
私がショーケン×ジュリーの関係に萌えるのも、
たぶんそのあたりの要因が大きいような気がします。
野々村×良ちゃん、裕也さん×ジュリーだと、
どうしても、ジュリーの方が一方的に愛されるという、
物語になってしまう。
70年代腐女子にはそれでよかったんでしょうが、
今は、というか、今の私は、
ショーケン×ジュリーの対等な関係性に理想を見て、
あれこれ妄想し、萌えているわけです。

JUNEとBLは、単なる呼称の違いだけでなく、
内容的にもそんなとこが違ってきてるんではないかなあと、
そして、今の腐女子たちの妄想も、
自分が受けキャラになって愛されるというよりは、
攻め受け両方の関係性を愛でる、
という方向になってきてるんではないかなあと思うのです。
BLの中の対等な関係性については、
また別に言いたいこともあるので、そのうち書きます。


と、まあ、だらだらと、
ジュリーをネタに、70年代JUNE的世界と、
現代BLの違いやらを語ってみました。
こんな長文をここまで読んでくださって、
本当にありがとうございます。

次に書くのは、もうちょっと短くするようにがんばります。
てか、次はおそらく、音楽劇「哀しきチェイサー」の感想。

しかし、ジュリーはこの音楽劇をやってて、
裕也さんとやったテレビドラマの「哀しきチェイサー」のことを
思い出したりしないんでしょうかね。
なんてなことも思ったり、
あ、あと、78年のドラマのときは、
探偵は裕也さんで、
ジュリーはすぐに死んじゃうアホの子だったのに、
今64歳のジュリーは自らが探偵役なんだよね。
そんなこともあれこれ考えたりしながら、
25日は音楽劇、楽しんで来ようと思います。