「ジュリーのシングル曲で昭和女性史」を考えてみよう

という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。
カテゴリは【ジュリーシングル曲で昭和女性史】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。




この曲ってカバー曲だったんですね。
知りませんでした。
原曲は1970年にフランスでリリースされた、
マイク・ブラントの「Mais Dans La Lumiére」。
Youtubeで「Mike Brant」「Mais Dans La Lumiére」と
検索するといくつか歌っている動画を見ることができます。
ジュリーを男っぽくしたようなイケメンですわね。

フランス語は大学で勉強したはずですが、
記憶の彼方で、もはや全然わかりません。
Google翻訳に頼りつつ、
原曲の歌詞を単語単位で訳してざっくり見たところ、
「あなたの身体はすでに燃えている」とか、
「あなたは目を見開き叫ぶ ジュテーム」とか、
「私はあなたを崇拝する」とか、
「もっと光の中へ」「金色の光の中へ」とかとかとか、
以下繰り返し、みたいな。
ふたりのラブラブな夜を、
これでもかって調子で歌いあげてます。
原曲のマイク・ブラントさんが、
圧倒的な声量でワウワウ歌っているせいか、
すんごい明るいハッピーな曲に聴こえます。
間奏のところなんかシャウトしてるし。
こんな素敵な彼女とラブラブできて僕は幸せなんだー!
彼女は僕を愛してるって言ってくれるんだー!
もっともっともっと光を!
僕らの愛に光をー‼︎
みたいな。(ですよね?)
もう幸せの絶頂って感じです。
っていうか……これって………あのー、
ヤッてる最中の歌…ですよね?(ち…ちがう?)
んで、それがキモチヨクて幸せでもっとヤリたくて、
もうどうしましょう的な?
う〜〜ん、ラテン系っていうかなんていうか。

一方日本語の「魅せられた夜」の歌詞は、
ほぼ原曲の歌詞そのままのようですが、
ZUZUさん訳の叙情的な言葉が使われていて、
かなりソフトな表現になっています。
ラテン系の情熱的なベッドシーンてよりも、
お花やお星様が飛んでいる、
少女漫画の中のベッドシーンみたいな。
んで、
「濡れた夜」「涙」「落ちてゆくよ」
「ガラスの夜」「さまよう」
などなどの、なーんとなくネガティブなイメージの
言葉が散りばめられているために、
ぼんやり聴いていると、
なんか悲しい歌なのかな?って気がするんですが、
そんなことないですか?
アレンジもおとなしめになってますし、
あと、ジュリーの切なげなブレス入りの
甘い声のせいもあって、
最後は「もう離さない」とか言ってるんだけど、
でも、そう思い通りにはいかなかったんでしょ?
とか言いたくなります。
タイトルの「魅せられた夜」ってのも、
現在完了形の「魅せられた」なんだろうと思うんですが、
日本語の難しいところで、過去形も同じなせいで、
「魅せられた」のは過去のこと、
っていうふうにも聴こえますしね。

あと、あれだ。
「許されない愛」から「胸いっぱいの悲しみ」までの
6曲がどれも成就しない恋の歌だったせいで、
このころのジュリーのイメージが、
ただただ恋人が好きで好きでうれしー!
っていうふうではないんですよね。
歌詞のどこかにまた「のに」があるんじゃないかって、
そんな気がしつつ聴いてしまいます。
だもんで、いくら
「愛してる」「あなたがいる限り」「もう離さない」
とか言われても、素直に信じられないんですよ。
「ジュテームって言ってた“のに”」って歌詞が、
どこかに出てきてるような気になりませんか?
歌詞をよく読めばどこにもそんなフレーズは
出てきてないんですけどね。
これは、ジュリーイメージ戦略の勝利と
言っていいんでしょうか。
悲恋の王子さまイメージですね。

それに加えて、お国柄というのもあると思います。
あっけらかんと「ジュテームジュテーム」言って
幸せを謳歌する欧米と比べて、
恋愛に対して妙な罪悪感のあった70年代日本。
恋愛と結婚はやるこた同じなはずなのに、
感情が先走る恋愛は、理性で送るべき結婚生活には
邪魔だと思われていたふしがあります。
で、結婚はみんなしなきゃいけないことなので、
それの邪魔になる恋愛は悪いこと、みたいな。
そんな時代とお国柄に加えて、
当時のジュリー自身の、
なんだか見てはいけないもののような超絶美貌でもって、
いくら恋愛を謳歌する曲であっても、
どうしても悲しい暗いイメージが
つきまとうんじゃないでしょうか。
ま、そこがジュリーのいいところなんですけどね。

私はこれはリアルタイムでは聴いた覚えがなくて、
カバー曲だと思わずに聴いていたときは、
後追いファンということもあり、
「ジュテーム ジュテーム ジュテーム」ってのが、
ジュリーらしいなあと思ってました。
「パリの哀愁」でフランス映画に出てるし、
「巴里にひとり」でフランスデビューもしてるし、
後年の「女神」でも「ジュテーム」て言ってますしね。
あー、そのへんのイメージにつられてるのかもしれません。
ジュリーのシングル曲に「ジュテーム」が出てくるのは、
実はこの「魅せられた夜」が初めてなんですけどね。

「アイラブユー」だと健全で明るい感じがするのに、
「ジュテーム」っていうと、なんかちょっと湿度が高い感じ。
大人な感じと言ってもいいかもしれません。
70年代少女漫画派には圧倒的に「ジュテーム」のほうが、
ぽわわ~んとくるものがあります。
当時の少女漫画とかジュリーの曲とかは、
少女たちに大人な世界を垣間見せてくれるものだったんですよ。
そんな大人の世界には、やっぱり、
切なさとか苦しさみたいなものがスパイスとして
必要だったってことじゃないですかね。


と、この曲に関してはこんなところで。
だいたい、シチュエーションも、「あなた」がどんな女かの描写も
なんにもないですからね。
この曲で求められている女性像がなにかなんてわかりませんもん。

ところで、これの原曲を歌っているマイク・ブラントという人は、
イスラエル出身の歌手なんだそうです。
それがフランスでデビューして、この曲はデビュー3曲目。
デビュー以来続けてのヒットで、人気歌手だったんですね。
この約1年後にジュリーもフランスデビューするわけで、
フランスにはこういう外国人を受け入れる土壌のようなものが
当時はあったということでしょうか。
というか、この曲をカバーしたこと自体が、
ジュリーのフランスデビューの布石だったのかもしれませんね。



てなところで「裏」解釈ですが、
今回は酷い感じでお茶を濁しておりますので、あしからず…

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「ジュリーのシングル曲で昭和女性史」を考えてみよう、

という無謀なことをやっております。
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さて、ZUZUさん作詞の少女漫画シリーズ(?)第二弾、
「胸いっぱいの悲しみ」でございます。
うまく途中で切れなかったんで、ひとつの記事なのに、
すごく長いです。
お暇なときにお読みください。


出ました「短い夏の恋」!
ひと夏の恋とかさー、ひと夏の経験とかさー、
ひと夏の冒険とかさー、とかさー……
歌の文句によく出てくるし、
今でもJ-POPとかにいっぱいありそうだけど、
わたしゃ52年間生きてきて、
ということは52回の夏を過ごしてきて、
そんな夏を過ごしたことは一度もございませんよっ!
なんなの? どこか別の世界線の話なの?
私の知らないところで世界はまわってんの?
……まあ、そうなんでしょうけどね。

……………
 …………………

と、気を取り直しまして。

私には関わりのない世界ですが、
こんなお話、私は漫画でいっぱい読んだことありますよ。
いわゆる赤毛もの。
ニースとかコートダジュールとかの
海辺の恋って感じですか?(イメージだけで言ってます)
お金持ちが家族でバカンスに来てたりしてさー。
女の子はジョセフィーヌとかで、
男の子はミッシェルとかいうんですよ。
何年ぶりかで会った従姉妹とか、
その従姉妹が連れてきた友達とかで、
やっぱり女の子のほうがちょっと年上だったりしてさー。
ミッシェル16歳、ジョセフィーヌ18歳とか、そのぐらい。
一緒にコロコロ遊んだ子供のころよりも
大人っぽくなったお互いににどきどきして、
岩陰でちゅーとかしちゃうの。
んで、ひと夏楽しく過ごすんだけど、
ジョセフィーヌには親の決めた許嫁がいてとか、
家の事情で遠くに行かなきゃいけなくてとか、
みたいなそんな話で、ひと夏の恋はジ・エンド。
いつの時代設定かどこの国の話かにもよるけど、
女18つったらもう嫁にも行ける年。
んで、ひと夏の恋を経て、
ひとつ大人になったミッシェルは、
秋風の中、ギターを弾く手を休めて
「あなた」の面影をしのぶのだったーみたいなー。

もうちょっと大人同士のふたりで、
やっぱ女のほうは人妻でっていう、
「パリの哀愁」的な話でもいいのかもしれませんが、
でも「新しい幸せ祈るよ」って言ってますからね。
「あなた」は夫のところに戻って
元の生活を続けるんじゃなくて、なにかしら今とは違う
新しい環境に行ってしまうイメージなのかなーと思います。
それに、「危険なふたり」では、
「僕には出来ない まだ愛してる」と、
積極的な駄々っ子だった「僕」ですが、
「胸いっぱいの悲しみ」の「僕」は、
「行くな」とは言えなかったんですよね。
扉のとこにたたずんでたってことは、
扉の向こうの話を立ち聞きし、それに対して
「僕」は「行くな」と言う力のない立場だったってことで、
やっぱり16歳ミッシェル説を私は取りたいです。

しかし、この、年若いふたりのかわいい恋が
大人の都合で引き裂かれる系の話っていうのも、
根っこは人妻と少年の「許されない愛」
同じなような気がします。
女は自分からは運命に逆らえない。
「僕」が「行くな」と言えなかったから、
「悲しい別れが」なんですよ。
なんで自分で「行かない」って言わないんですかね。
このへんは、不倫三部作のところで語った、
旧世代の、特に男に都合のいい女性像のままな気がします。
親の言うこと、夫の言うことに逆らわない女。
しかも、若いうちに親や家の事情で、
自分の人生が決められちゃう。

あ、今やってるNHKの朝の連ドラ「マッサン」で、
ちょうどそんな話をやってますね。
住吉酒造のお嬢様である優子さんが、
本当は外に出て働きたかったのに、
お父さんの経営する会社の資金繰りのために、
お金持ちの息子と結婚させられる……。
ヒロインのエリーは
「結婚したくないならしないほうがいい」と言いますが、
これは現代の私たちからの視線です。
それに対して大正時代の女である優子さんは、
「うちの仕事は親の決めたところに嫁に行くこと」
と割り切って結婚するようです。
そう、当時の女にとって結婚てのは「仕事」なんです。
恋愛なんていう個人的な感情とは別のところにある、
やらなければならないこと。
住吉酒造のように家族経営の会社だったりしたら、
社員ではなくとも、「娘」も会社のコマのひとつです。
そしてその「仕事」は「結婚」ですから、
若いうちじゃないとできないお仕事です。
来週の予告では、花嫁姿の優子さんが笑顔で
「うち、幸せになるわ」と言っていましたが、
恋愛感情を伴わない結婚であっても、その中で、
自分の役割を見出して幸せになることも不可能ではなく、
それはまさに「仕事」と同じです。
ほんと、優子さんには幸せになってほしいですね。

ちょっと話は逸れますが、「マッサン」は、
国産初のウイスキー作りと当時の国際結婚の苦労話ドラマですが、
とても良質なジェンダー問題提起ドラマでもあると思います。
ドラマの中で、エリーは外国人だからということで、
日本の女性の生き方のおかしなところに切り込んでいきますが、
これは、優子さんが言っていたように、
考えないように心に蓋をしていた、
昔の日本女性が縛られていたさまざまな社会規範を、
エリーに代弁させる形で、
今の感覚で「変だよ」と明らかにしつつ、
そして、「今でも同じ問題はあるよね」と考えさせる、
そんな仕掛けのドラマになっているのじゃないでしょうか。
問題提起するためだと思いますが、
マッサンがエリー=現代女性というかフェミニストの
地雷踏みまくりでハラハラしつつ、
それも含めて楽しみに観ています。

優子さんが最初ぽわわ〜んてなっていた、
マッサンとの結婚が現実になっていれば、
同じ「仕事」でも、恋愛感情を伴った結婚でもあり、
優子さんはそのままなにも考えずに、
幸せに暮らしたんでしょう。
そして、当時そんなふうな人生を送った女性は、
たくさんいたんだと思います。
昔のことで、人間そんなに行動範囲は広くないですし、
箱入りのお嬢様ならなおさら、
自分と結婚するような年代の男なんて、
身近では数えるほどしかいなかったでしょう。
余裕のある家だったら、親はその限定された中から、
娘も納得しそうな男を選んで結婚させ、
そんなもんかと人生を送ったんだと思いますが、
そこに経済的な問題が持ち上がると、
その結婚は途端に「仕事」としての意味合いを
帯びてくるわけで、親も娘もいろいろと妥協点を
探らなければならなくなります。
それが「うちの仕事は親の決めたところに嫁に行くこと」
という台詞になっていくわけですね。

そういえば、
仮にマッサンがエリーを連れずに帰ってきて、
優子さんと結婚するつもりでいても、
住吉酒造が資金繰りに困った状態になったら、
どうなったんでしょうね。
資金援助をしようという会社がその条件に、
自分のところの息子と優子さんとの結婚を持ち出したら、
それはまさに「胸いっぱいの悲しみ」の世界じゃないですか。
優子さんがマッサンに「これでもう逢えない」と、
涙をこらえて言い、マッサンはなにもできない、とかね。
今の時代、さすがにこんなお話は、
時代を過去に設定して作らないとドラマになりませんが、
70年代はもうちょっと現実的な話だったのかもしれません。
自分とは縁のない、外国や上流社会のおうちの話だけど、
決して絵空事ではない、
どこかに存在するかもしれない女の子の話。
自分ではどうしようもない恋の障害として、
親の言うことや家の事情というのは、
特に女にとっては、かなり有効なものだったんだと思います。
自分とは違うセレブな描写にぽわわ~んとなりつつも、
障害のある恋にやきもきする……みたいな、
そんな少女漫画は山ほど読みましたし、
ジュリーの曲も、ターゲットは同じですよね。

しかし、70年代、セレブではない普通の家の女の子でも、
「好きな人と結婚しなさい」と言われつつも、その裏側には、
(でも親にも気に入られる人とね)という心の声が透けていて、
いざ「結婚」ということになれば、
そういうことを完全に無視して突き進むことは、
かなりの勇気と労力が必要でした。
そんな、やんわりとした締め付けよりも、
いっそのこと、親が決めた相手という、
はっきりした障害があるほうがいいのにと思っちゃう
女の子もいたことと思います。
っていうか、平成元年に結婚した私にしてからがそうでした。
別にはっきりと反対はされなかったけど、
じんわりと嫌な顔をされるという、真綿で首を締める作戦……。
そうでした!(思い出し中…私は知らん顔して結婚しましたがね)
あっ! こないだのドラマ「相棒」でも、
父親と折り合いが悪いカイトくんが、
勝手に結婚しようとしているのを、当の彼女が、
「お父さんに祝福してもらえないなら結婚しない」
とか言い出して、カイトくんを困らせてましたね。
今でもかー……。
親に祝福される結婚問題……根が深いですなー。

そこでふと思い付いたんですが、
前回の「危険なふたり」のところで、
「わかりません」と書いた、
なぜ女が年上だと不道徳な感じがするのか問題。
この、親も祝福する結婚でなければいけない、
という意識が関わってるのかもしれません。
えーと…、今は女性が働くことは当然のことで、
結婚しても共働きは普通のことですが、
戦前から昭和の時代ぐらいまでは、
女は結婚したら専業主婦になり、
夫の稼ぎで食わせてもらう、というのが、
スタンダードと言われていました。
(明治以前はそうでもなく、もっと言えば昭和でも働く既婚女性はいっぱいいたんですが、世間一般の常識としてそう考えられていたということです。いろんな方面の思惑が作り上げた「常識」っぽいんですけどね)
そして同じくスタンダードとして、
女は20歳過ぎたら結婚するもの、25歳ではもう遅い、
というのもありました。
ま、これは結婚=出産と考えられていた時代でもあり、
出産適齢期ということを考えれば、
こういうふうな縛りができたのはわかります。
どっちにしろ、個人のことを考えない、
女であるという属性だけで決め付けられたことであり、
そういう決め付けが是正されたのはよかったと思います。
その結果、少子化になっているのだとしたら、
それは自然の摂理ということなんじゃないですかね。
……と、話が逸れましたが、
20歳ぐらいの女が結婚して働かず、
夫の稼ぎだけで「幸せに」暮らすとしたら、
相手はかなりの資産家か、
将来を約束された仕事に就いているか、
すでにそれなりの地位にある男ということになります。
親からすれば、娘の幸せをなにで換算するかと言えば、
やっぱり最低限、生活の不安がないことでしょう。
いいとこのお嬢さんだったら、結婚前の生活の水準を維持し、
願わくば一生を過ごすところなんだから、
将来も安泰な経済力を持った男ってのが望ましい。
その上で、娘が気に入った相手であればなおよし。
それが「親も祝福する結婚」なわけですよ。
「危険なふたり」の「あなた」が結婚前だとしたら、
まだ20歳前後。
それより年下の男なんて全然お呼びじゃありません。
「愛だけで暮らしていけるなんて甘いんだよ」
なんてお説教されるのが目に見えるようです。
逆に、「危険なふたり」を歌ったころの
ジュリーの年齢の25歳よりも年上の女だったとしたら、
普通は結婚している年ですし、それなら不倫です。
そうではなく、25歳過ぎても未婚だとしたら、
ただ「愛してるのに」とか繰り返すばかりの、
キラキラフワフワした格好をした年下の男と
「恋という旅」なんかしてる場合じゃありません。
親も安心するような自分の身の振り方を、
現実的に考えなければならない頃合いです。
というわけで、年下の男と恋愛してるような女は、
親を安心させていないという点で、
「不道徳」なイメージを持たれていた、
ということはないでしょうか。

「危険なふたり」「胸いっぱいの悲しみ」
作詞は安井かずみさん(ZUZUさん)です。
ZUZUさんは、海外を飛び回ったり、国際結婚したり、
離婚したり、作詞家として活躍したりと、
当時の女性としてはかなり自由に生きた人だと思うんですが、
歌詞に登場させる女性には、
世間一般が求める古風な女を描いたってことでしょうか。
もしくは片思いをしていたというジュリーの前では、
ぶっ飛んだ新しい女というよりも、
古風な女でいたかったとか?
そういう女心だったんでしょうかね。

しかし、まあ、「危険なふたり」の「あなた」は、
なんだかんだ言いつつ、駄々っ子な「僕」に押し切られて、
本当に別れたりはしなさそうだし、
「胸いっぱいの悲しみ」には、
数年後の再会編みたいなハッピーエンドがありそうな気もします。
コンセプト・アルバムの中の物語自体がループしていて、
不倫三部作プラス「あなたへの愛」と、
4曲続けて同じ世界観の中で「僕」が嘆き続けているのと違って、
「危険なふたり」「胸いっぱいの悲しみ」も、
それぞれが独立した物語として作られているために、
続編、続々編とかも妄想し放題です。

「胸いっぱいの悲しみ」から10年後ぐらい、
ミッシェルはすっかり大人なイケメンになって、
若いながらにある程度の地位も築き、
あちこちで浮き名を流してるけど、
16歳の時の恋が忘れられず、ひとりの人を決められない。
そこに、あのジョセフィーヌの夫が
事故で亡くなったという知らせが届く。
親の決めた結婚だったけれど、
それなりに幸せな結婚生活を送っていたジョセフィーヌ。
悲しみから立ち直ろうとする彼女を陰ながら見守り、
自分とわからない方法で支えるミッシェル。
さらに数年が経ち、ふたりはとあるパーティでついに再会する。
「やっぱりあなただったのね。ミッシェル」
「バレてましたか」
「あの18の夏から、あなたはずっと私の支えだったもの」
なーんてね。
BGMは、ジュリーの歌う「パーティの後で」でお願いします。

そんなふうな続編やスピンオフ的な物語を
二次創作的に妄想して楽しむことができるのも、
1曲ごとに作り込まれた物語を持つジュリーの曲の
いいところですよね。


と、今回はちょっとは昭和女性史っぽい感じになったでしょうか。
かなり展開が無理矢理でしたが、この曲に関してはこのへんで。


お次は「裏」解釈です。

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「ジュリーのシングル曲で昭和女性史」を考えてみよう、

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「危険なふたり」その1からの続きです。

そんなこんなで、ZUZUさんの妄想だったのかどうかは
もはやわかりませんが、
登場人物の台詞や、「あなた」のほうが年上という、
ふたりの年齢の関係までもが入った、
はっきりした物語を提示しているのが、
この「危険なふたり」です。

いきなりの台詞から始まる「あなた」ですが、
それまではなかった「あなた」の描写も、
「危険なふたり」には入っています。
それも、「美し過ぎる」「きれいな顔」。
えーー! そうなんだ!
っていうより、「そうだよね!」ですかね。
あのジュリーが「許されない愛」なのに、
「あなただけでいい」「死んでもいい」とか言って
愛してる「あなた」なんだから、
美しくないわけはないです。
ないわけはないんですが、
そこはぼかしてあったおかげで、
聴いてるこっちは「あなた」=自分
と妄想することもできたわけですよ。
はっきりと「美し過ぎる」って言われちゃったら、
どうしたらいいのさー、って感じじゃないですかね?
しかも「年上」って限定されてるし。
年下のファンはアウトオブ眼中ですか?

でも、「危険なふたり」は、その限定された点が、
いいところだったんだと思います。

不倫三部作のところで引き合いに出した「天の夕顔」ですが、
【稀人舎通信8号】の座談会で金井さんが、
これに出てくる人妻を「絶世の美女」と言ったところ、
「そんなことどこにも書いてない!」と、
私たちに総ツッコミをされてます。
「天の夕顔」発表当時の昭和初期の読者には、
こういう恋愛小説に出てくる人妻は「美女である」
というお約束を共有できていたんだそうです。
今ではそのお約束は全然共有できず、
なんで主人公の青年がこの人妻に恋をするのか
さっぱりわからなくなっていて、
ポカーンて感じになってしまっているわけですが、
1973年当時も、すでにその傾向はあったんじゃないでしょうか。
少年が「許されない愛」とわかっていながら、
一目惚れし深みにハマるのは、
その相手の女が美しい人だったから、
という暗黙の了解がわかりにくくなって、
聴き手の思い込みや妄想だけに委ねるということが
難しくなってきたのかもしれません。
それに、ジュリーも25歳になり、
「許されない愛」のコンセプト・アルバムでの、
傷ついた少年っていう設定をひっぱるのも、
そろそろ無理があります。
そこで、
「あなた」は「美し過ぎる」「年上の女(ひと)」
「僕」はその「あなた」の
「大人の振り」をした嘘をちゃんと見抜いていて、
「まだ愛してる」と言っている……、
というはっきりとした設定や台詞を提示し、
そういう「物語」として作られたのが「危険なふたり」です。

「あなた」を「美し過ぎる」「年上」と限定してしまうことで、
ジュリーに乙女萌えという点では、
聴き手が自分を投影することは難しくなりますが、
少女漫画や恋愛小説ではまだ、そういうお話を、
お話として、女の子たちはみんな楽しんでいました。
一条ゆかりの「砂の城」は1977年からの連載ですから、
ちょっと後ですが、世界観は同じです。
70年代後半でも、恋愛物語としてだったら、
こういう世界も受け入れられていました。
ていうか、1997年にドラマになってましたよね?
年上の人妻ものでは「雨あがり」ってのもありました。
人妻っていうか、義母と高校生の息子ですけどね。
まさに「許されない愛」ですよ!
「雨あがり」は1971年の作品。
この主人公の男の子のビジュアルはまんまジュリーですよ。
今でもベタな昼メロとかのドラマだったら、
こういう世界もありそうです。

「あなたへの愛」まで4曲は、
山上路夫さんとZUZUさんが交互に作詞してきて、
ここからはZUZUさんの続投になり、
このあと「追憶」まで、
「あなたへの愛」も含めると6曲が、
ZUZUさん作詞で続くわけですが、
この「危険なふたり」以降は、
「ジュリー」というコンテンツを使った、
ある作り込まれた物語を提供するものになっていきます。
それぞれに具体的な物や情景描写を歌詞に入れ込み、
聴き手はまるでひとつひとう違う少女漫画を読むように、
その物語を楽しむことができます。
それまでもジュリーは、
叶わない恋に苦しむ「僕」を演じてはいましたが、
曲は違っても登場する「僕」は、
ジュリー自身を想定したいつも同じ「僕」であり、
聴き手の思い込みにまかせて物語自体を妄想させて、
乙女萌えさせることを狙っていました。
それが、「危険なふたり」からは、
曲ごとに違う物語になっていて、
その物語の世界に憧れさせるようになっています。
ジュリーはその中の「僕」を演じる役者のようなものです。
どの曲の中の「僕」も、ジュリーであってジュリーでない、
という、ジュリーのスタイルがここで確立されたわけですね。
「危険なふたり」からは、
衣装に早川タケジさんが起用され、
ビジュアル面からも、より作り込まれた「ジュリー」を
聴き手に提供することができたことも、
そんなスタイルに大きく貢献したのだと思います。

そういえば、シングル曲のジャケットも、
「あなたへの愛」までは、
そんなに作り込んでいるようには思えないんですが、
当時はジャケ写ってあんまり重要視されてなかったんでしょうか。
「君をのせて」は、おそらくPYGのステージ写真だし、
他はどれも背景がないせいで、
どういうシチュエーションだかわかりません。
「あなだけでいい」はどうして薔薇をくわえてんですか?
「あなたへの愛」に至っては、
「死んでもいい」の写真から作ったイラストですよね。
(手抜き? 小声)
それが、「危険なふたり」では、
ちゃんとジャケット用に撮影されたらしい写真になってます。
どこかのハウススタジオみたいなとこの窓辺に
ジュリーが座っていて、
「危険なふたり」のワンシーンかなーという雰囲気。
ぼやーっとした表情のジュリー、かわいいですよねー。
このジャケットのデザインもタケジさんなんでしょうか。
これ以降のジャケットもだいたいそうですが、
写真もデザインも、曲の内容を踏まえての、
トータルなイメージを意識して作り込まれていると思います。


と、今回は、「危険なふたり」の中の
「あなた」の女性像についてというよりは、
ほとんど曲自体の解説になってしまいました。
だって、「あなた」の基本的なところは今までと同じですから。
ただ、ZUZUさんがおそらく自分を想定して書いたせいか、
この「あなた」はそれまでの男に都合のいいだけの女では
ないように感じられます。
「今日まで二人は恋という名の旅をしていた」
なーんて台詞も素敵だし、
「恋に疲れたうつろな瞳」とかさー。
明るい曲調も含め、全体がおしゃれな雰囲気のせいか、
それまでのじっとりした
「ザ・女」を連想させる「あなた」ではなく、
自立した大人な女性ってイメージが湧いて、
子供の私は、それこそ一条ゆかりの漫画を読んで、
「は〜、大人の恋ってこんななのね」と
ぽわ〜んとなったのと同じように、
今でも「危険なふたり」にぽわわ〜〜んとなるんですよね。

しかし、このサビの最後「それでも愛しているのに」の、
「それでも」ってのはなにに対して
「それでも」なのかって言ったら、
「年上のひと」だからなんですよね。
はー、ここでもやっぱり「年上」が障害になってるようです。
なんで?
やっぱ、当時は女は男に支配されるべき存在とされていて、
年上だとそれが難しいからってことですかね。うぎー。
それは今でもマッチョな男どもの考えそうなことだけど、
でも、それだけじゃなくて、
70年代ぐらいまでは、女が年上だと、
どうも不道徳っぽいイメージがあるように感じるんですが、
なんでですかね?
人妻で不倫だったりしたら不道徳ってのもわかるんですが、
年上ってだけでもそんなイメージがつきまとうって、
どういうことなんでしょうか。
わかりません。
なんかわかったらそのうち書きます。

ところで、ジュリーは今年のツアーでも、
この「危険なふたり」を歌っていて、
ツアー開始当初は普通に歌ってたと思うんですが、
だんだんと遊び(?)を入れてきて、
8月ごろから「年上のひと美し過ぎる あぁ あぁ」のところを
「年上のひと(?)美し(?)過ぎる」と会場を物色し、
「あぁ↓ あぁ↓」と頭を抱えるという、
失礼千万なパフォーマンスをするようになりました。
これは「じゅりワン」の時もやってましたね。
こないだの9月のコンレポで私は、これを
次のフレーズの「それでも愛しているのに」に繋げて、
美しくなくても、ジュリーはファンを愛してくれてるんだ!
と、おめでたい解釈をしたんですが、
さきごろどこかのライブのMCでジュリー自身が、
「年上の人って言ったらもうかなりのお年だし、
 『美し』が『過ぎた』ってことで…」
とか言ってたらしいです。
ちょ…ちょっと、それは無理矢理過ぎませんか? ジュリー!
と思ったんですが、
でも、ということは、以前は「美し」かったのが今は「過ぎた」と、
で、それでもジュリーは愛してくれてるんだと、
またしても都合よく解釈させていただきました。ほほほ。

私は、この「危険なふたり」に限らず、
今ジュリーが歌う恋歌は、だいたいを
ジュリーがファンのことを想ってくれてる、
と脳内変換できる幸せものです。

全盛期の僕よりも今は年上になってしまったけど、
デビュー以来今までずっと
ファンという名の旅をしてきた美しいファンたちを
今の僕はまだ愛しているよ。
何気なさそうに、僕のファンをやめるなんて、
あなたは言うけど、僕はまだみんなを愛してる。
もうアイドルのファンなんかやっていられないと、
大人の振りをしてあなたは別れるつもり?
おっかけに疲れた虚ろな瞳もまた似合うけど、
いい年してジュリーのファンなんてという世間を
なんであなたは気にするの?
年を取っても美しさが過ぎても、
僕はそれでもみんなを愛してるのに〜〜……

なーんてね(笑)。


ぜえぜえ……、やっと終った、か?
さすが、私のジュリーファーストインプレッション曲。
語っても語っても語り尽くせません。
またなんか思い出したら、
他のところでも語るかもしれません。


で、お次は「裏」解釈ですよ。

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「ジュリーのシングル曲で昭和女性史」を考えてみよう、
という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。
カテゴリは【ジュリーシングル曲で昭和女性史】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。




さて、やっとリアルタイムで記憶にある
ジュリーのとこまで辿り着きました。
といってもまだ6曲目かー。
先は長いですね。がんばります。

「危険なふたり」のジュリーは、
綺麗でかわいくてキラキラで、
ほんっとうに\ジュリー!/ですよね。
私の\ジュリー!/のイメージはこれです。
これに尽きます。
今、世間で\ジュリー!/と言えば、
「勝手にしやがれ」の帽子投げとか
「TOKIO」のパラシュートとかが定番で、
テレビ番組での昭和歌謡特集などで
ジュリーが登場するとその辺がほとんどです。
たまに「時の過ぎゆくままに」とかでしょうか。
(ついこの前のテレビ番組で珍しく「危険なふたり」が流れましたが、映像は「サムライ」ぐらいの大人ジュリーでしたね。美しかったですが、やっぱり「危険なふたり」は73年当時のかわいいジュリーがいいなあ)
でも、またその曲の記事で詳しく語りますが、
私にとって「勝手にしやがれ」以降のジュリーは、
もはやおっさん枠だったんですよ。
(あ、すいません。今はそんなん思ってませんよ。1977年当時ってことです)
昔アイドルだった人が復活してきて、
またがんばってる、みたいなイメージ。
おそらく「危険なふたり」のジュリーのインパクトが強くて、
もうそれでがっつり\ジュリー!/ってのが
私の脳内には刷り込まれてしまっていたんでしょうな。
「勝手にしやがれ」はそれから4年後。
子供時代の4年間は長いし、
(小学5年生が中学3年生ですよ)
ジュリーは「勝手にしやがれ」で、
かなりイメージチェンジして再登場!って感じでしたので、
そんなふうに感じたんだろうと思います。

っていうか、
綺麗でかわいい男性アイドルってのを私が認識したのが、
「危険なふたり」のジュリーでだったんですよ。たぶん。
なんせ、GSのころはビジュアルとしては
全然見ていなかったですからね。
(いや…見てたのかもしれないですけど、記憶にはまったく残ってません。残念だー)
私が「危険なふたり」ジュリー以前で覚えている男性歌手は、
タキシードとかスーツか和服、
そうじゃなければ、フォークソングの人たちの
ジーンズにTシャツと、両極端なものでした。
そこにジュリーは、フワフワやキラキラをくっつけた
白いパンタロンスーツで登場ですよ。
紅白なんか、素肌(!)にパールのネックレスですよっっ!
まあ! 奥さん!
前の年に「許されない愛」で紅白に出場したときも、
なんだか異様にキラキラしてますが、
でも、形は普通にスーツで色もブラウン系です。
(これはYoutubeで見ましたが記憶にはありません。でっかい蝶ネクタイがかわいいけど喉がくすぐったそうだw)
それが、1973年の紅白では、
素肌(!)にファーの付いた白いロングジャケット!
手には赤いファーを持ち、ロンドンブーツですよっ!
まあ、大変。
しかも、だいたい直立不動で歌うのが普通だった時代に、
あのアクションです。
派手なアクションでは西城秀樹とかもいましたが、
人気が出るのはもうちょっとあとですよね。
私の父は「危険なふたり」のジュリーを見て、
「あんな、くねくねしながら歌なんか歌えるか!」
とか言ってました。
てことは、それまではあんなふうにして歌う歌手は
あんまりいなかったってことじゃないでしょうか。
私の記憶ではフォーリーブスぐらいです。
でも、あれはダンスだから、
ジュリーの「くねくね」とは違いますよね。
ザ・タイガースのころやコンサートではやっていたんでしょうが、
それをテレビを通じて70年代以降のお茶の間にも広めたのが、
ジュリーだったのだと思います。

私は2009年にジュリー堕ちし、
寝不足になりながらYoutubeめぐりをしてて、
「危険なふたり」紅白動画を見付けまして、
おおお〜〜これこれ、これが私のジュリーだよー、懐かし〜
と、思わずこんな絵を描いちゃったんですけどね。

危険なふたり
クリックしたら拡大されます。

描きながら、あれ? これって、なんか……、
同じような絵を描いたような記憶があるぞ、と思ったんですよ。
ジャケットのフワフワに四苦八苦し、
パールのネックレスが三連だったか四連だったか悩みつつ、
粒粒をチクチク描いた記憶が……。
そうです。
たぶん、「危険なふたり」ジュリーの絵を、
11歳の私も描いていたんだと思います。
どんな絵だったかは全然覚えてませんけどね。
当時は録画なんてもちろんできず、
芸能雑誌を買うような知恵もお小遣いもない子供。
紅白を見てか、他の歌番組を見てかはわかりませんが、
なんとかして、その強烈に印象に残った姿を留めておこうと、
自分の記憶だけを頼りにああでもないこうでもないと、
広告の裏かなんかに一生懸命描いていたんでしょう。
ああ、三つ子の魂百までとはこのことか。
35年後に当時の録画や画像を(何度でも)見られて、
それをなんとか自分が納得するぐらいには、
きれいに描くことができてよかったね、小さい私……(涙)。

てなほどに、インパクト大だった「危険なふたり」
ジュリーのビジュアルももちろんですが、
その曲も大好きでした。
「許されない愛」以降は
バックに井上バンドが付いていたとはいえ、
アレンジはオーケストラの音がメインで入っていて、
バンドの音とは言えません。
ホーンやストリングスがぱぱぱ〜〜きゅきゅきゅ〜、
ティンパニずどどん、シンバルしゃ〜〜ん、
女声コーラスがわわわわ〜とかの、
これでもかって重厚な音とスローなメロディでは、
子供の耳にははっきり言って、
他のムード歌謡と見分けがつかなかったんだと思います。
今じっくり聴いてみれば、
ギターもベースも入ってるし、
フレンチ・ポップの路線なんだろうなとわかるんですが、
70年代前半の田舎の小学生にそんなことはわかりません。
洋楽なんて聴いてませんでしたしね。
音楽の入り口はテレビの歌番組がすべてでした。
そして、当時の歌番組は演歌とムード歌謡が
ほとんどだったんですよ。

そこに「危険なふたり」ですよ。
イントロからいきなりのギターの音。
つい先日もテレビで布袋寅泰さんが、
ギターイントロの名曲として、
「危険なふたり」を紹介していたそうですが、
音楽に疎い当時の子供の耳にも、
これは新しい!と聴こえたんでしょう。
大人の人たちが「♪わわわわ〜」と歌う
今までの歌謡曲とは全然違うぞと、
そのビジュアルと一緒になって、
11歳の私の脳に突き刺さったんですね。

しかーし、ポップなメロディやバンドの音や
キラキラなジュリーの姿に惑わされてはいけません。
(あ、惑わされても別にいいんですよ。ジュリーには惑わされてなんぼですからね)
「僕」はまだ同じ女にひっかかっているようです。
「あなた」が別れ話をしているのに対して、
「僕」がいやだと言っているシチュエーションは、
「あなたへの愛」と同じです。
でも、今度は「年上のひと」とはっきり言ってます。
やっぱり年上だったのかー。
そして「美し過ぎる」のかー。
「きれいな顔」なのかー……。
不倫三部作では、手を伸ばしてもそこにはもういなくて、
「あなたへの愛」でやっと「僕」のそばにきた「あなた」は、
どんな女なのか、なにを言っているのか、
ようやくこの曲で明らかになりました。

っていうかですね。
「あなたへの愛」では、
「あなた」が「僕」と一緒にいるってことはわかるんですが、
「あなた」の描写は手とか指とかの部分にとどまっていて、
どんな人なのか、ふたりの間柄はどうなのか、
これからどうなるってところなのか……、
こっちはすべてを推測するしかないんですよ。
ま、そこがこの歌詞の素晴らしいところでもあるんですけどね。
「あなたが 言い出せば 悲しく 聞こえる」って、
なにを言い出したのかはわかりません。
「悲しく聞こえる」ってことは別れ話なんだろうなあと、
こちらに推測させているだけです。
「あなたへの愛を」「胸に抱きしめて」「今日まで来たのに」
って、「来たのに」なんなのか、続きがありません。
ジュリーの切なげな「ああああ〜〜」ってな嘆き声(?)で、
明日からはもう抱き締められなくなるってことなのねと、
また推測です。
「あなたの気持ちを 傷つけるつもりは ないのに お互い」の
次もありません。
また「のに」です。
「お互い」って、「お互い」がどうなの?って思ってると、
「冷たい 指先を 暖めて あげたら」って
思い出話になっちゃって、
「傷つけるつもりはないのに」の続きは?
んで、この「お互い」ってフレーズが秀逸だと思うんですが、
これって、メロディに乗って歌われていると
「傷つけるつもりはないのに」と、
次の「冷たい指先を暖めてあげたら」の、
どっちにかかってるのかはっきりしなくて、
「傷つけるつもりはないのにお互い」と
「お互い冷たい指先を暖めてあげたら」というふうに、
脳内で別々に振り分けて聴いてしまうんですよ。
んでもって、
「楽しかった 二人」って過去形になってるってことは、
今はもう楽しくはないのねって、これも推測ですが、
「お互い」が橋渡しをしているせいで、

お互いに傷つけるつもりはないのに

傷つけてしまう

二人はもう楽しくはない

と、
聴き手は勝手に思ってしまうって仕掛けです。
素晴らしいです。

と、思わず「あなたへの愛」の解説になっちまいましたが、
このようにこの曲は推測に次ぐ推測で、
曲全体の雰囲気として、
あと、不倫三部作からの流れで、
「あなた」とは別れなければいけなくて、
ふたりの愛はもう途切れがちだけど、
でも愛の鎖というものがあるなら
それにつながれてどこまでも行きたいんだー
ということは「僕」はまだ別れたくないんだー
ということを歌っておるんだろうなあと
ぼんやりと思わされるってわけです。
いろんなことをはっきりさせずに曖昧にしていることで、
聴き手の妄想を自由にさせてるんですね。
「あなた」はどんな言葉でどんな口調で別れを言ったのか、
どんな見た目なのか、どんな表情をしていたのか、
「僕」とはどんな関係だったのかまで、
すべてが聴き手の思い込みで成り立っている歌詞です。
極端な話、別れたいのは「僕」のほうで、
「あなた」は別れたくないってことを言い出し、
それが「僕」には悲しく聞こえたっていう
物語を当てはめることも可能です。

それが「危険なふたり」では、のっけから、
「今日まで二人は恋という名の旅をしていたと言えるあなた」と、
「あなた」の台詞からの始まりです。
そんで、その「あなた」は
「年上の女(ひと)」で「美し過ぎる」と、
どんな女か、かなり詳しく説明しちゃってます。
さらに
「何気なさそうに 別れましょうと あなたは言う」
とか、はっきり「別れましょう」って言ってるし、
しかも「何気なさそうに」って描写付きです。
親切。
そして、それに対する「僕」の態度も、
なんだか煮え切らなかった感じの
不倫三部作や「あなたへの愛」とは違って、
「僕には出来ない まだ愛してる」
と、はっきり意思表明しています。
別れ話シーンっぽいシチュエーションはこれまでと同じですが、
「僕」の態度はかなり違うように見受けられます。

「危険なふたり」は最初B面になる予定だったのを
「これをA面にしてくれなきゃ、僕もう仕事行かない」
と、ジュリーが会社に書き置きをして脅して(?)、
A面にしてもらったんだそうです。
ハゲ萌えエピソードですよね!
自分が必要とされていることを充分わかった上での
「やめる」発言とか、なにそれかわいい。

では、本来A面になるはずだったらしい、
B面の「青い恋人たち」はどんな曲だったのかというと、
これが、またほぼ「あなたへの愛」と同じです。
加瀬さん作曲の爽やかな曲調も似ています。
そして、曲調は爽やかですが、
歌詞の内容はやっぱり別れ話です。
「あなた」は「愛に背を向け歩いてゆく」んですよ。
ジュリーも明るめの声で、最後なんか朗々と歌い上げてるので、
ぼんやり聴いていると、
「あなた」が前向きに旅立っていくかのような、
いい話のようにも聞こえるんですが、
内容をよくよく聞くと、
「愛に背を向けて あなたは行く」だったり、
「幸せには まだ遠すぎる」だったりして、
やっぱり「あなた」は「僕」とは別れるつもりらしいです。
でも、ちょっと違うのは、
「すべてを許して 抱きしめてあげたい」とか
「すべてを包んで 見つめているのに」とか、
「僕」の態度がちょっと積極的になっているところです。
これまで、妄想の中の「あなた」に
振りまわされるだけのようだった「僕」が「あなた」に、
「許して」とか「包んで」とか言って、
「〜してあげたい」と言ってるんです。
進歩(?)です。
そして最後は
「いつかこの両手に 愛の日(灯?)を」
と繰り返していて、
「愛に背を向けて行く」あなたを口説き続ける
決意表明をしているようです。
ここは、「あなたへの愛」
「二人つながれて どこまで行きたい」と似てますね。

似てますが、「あなたへの愛」みたいに、
その情景を徹底的に聴き手の推測に委ねてはいないせいか、
聴いてるほうは、どんな状況なのか、
逆にわかりにくくなってる気がします。
あいかわらず「あなた」の実像がはっきりしないのと、
「僕」は強気なのか弱気なのかどっちつかずな感じで、
いい話なのか悲しい話なのか、
イメージが掴みにくいんですよね。
そんなことないですか? 私だけ?
これは、今までの「僕」と「あなた」の設定や、
曲のイメージはそのままにっていう縛りがあって、
その中でなんとかして新味を入れようとした結果、
「僕」のキャラがブレてしまった
ということじゃないですかね。

一方、「危険なふたり」の「僕」のほうは、
キャラがはっきりしています。
「別れましょう」と言う「あなた」に
「僕には出来ない まだ愛してる」とはっきり言ってますし、
「聞きたい 本当の事を」と言ってるってことは、
「あなた」は本当の事を言ってないと思ってるってことです。
あなたも僕のことをまだ愛してるんでしょ?
別れましょうって言ってるのも本心じゃないんだよね?
って言ってるんですよね。
かなり積極的です。
もはや駄々っ子と言ってもいいですね。
「あなたは大人の振りをしても別れるつもり?」と
責めてるってことは、
僕は大人の振りなんかできない、
年上のあなたに子供と思われてもいい、
それでも別れたくないんだよー!ってことですね。
まあ、素敵。
ただただ「愛してる」と言い、
でも「あなた」は別れると言うし、
僕にはもうどうしたらいいかわからないんだー!
というおろおろした「僕」よりも、
「僕には出来ない まだ愛してる」と言ってくれる
子供っぽくとも、多少強引な「僕」のほうがいいよね、
という時代の変化もあったのかもしれません。

加瀬さんは、
「あれはZUZUの自分のことでしょ」
とか言ってましたが、ほんとにそうかもしれません。
年上の自分は世間体を考えて、
「別れましょう」と言っているけれど、
それは「大人の振りをして」の嘘で、
ジュリー=「僕」は、ちゃんと本心をわかってくれて、
「本当の事を」「聞きたい」「まだ愛してる」と言ってくれる。
という、自分と年下の男の子=ジュリーとの恋物語を
ZUZUさんは妄想していて、
最初はB面の予定だったせいで、
A面よりは自由に作っっていいよと言われ、
じゃあちょっと遊んでみようかなと、
自分の脳内妄想を盛り込んで作ってみたのが、
「危険なふたり」だったのかもしれません。

そんなふうに、…かどうかは本当はわかりませんが、
できあがった「危険なふたり」は、
それまでのシングルとは全然雰囲気の違った曲になり、
オリコン1位、日本歌謡大賞、レコード大賞大衆賞と、
大ヒットになりました。
それまでの恋に苦しむ鬱々とした「僕」ではなく、
駄々っ子のように「まだ愛してる」と繰り返す、
やんちゃな「僕」を演じるのが楽しかったのか、
ジュリーも本当に楽しそうに歌ってますしね。
これが最初の予定通りにB面になって、
前曲までと同じような曲調の「青い恋人たち」がA面だったら、
きっと11歳の私の耳にも届かず、
私がジュリーを認識することもなかったでしょうから、
「これをA面にしてくんなきゃ、僕もう仕事行きません」
と、かわいい置き手紙をしたジュリー、
グッジョブでございます。


……と、案の定この曲については
超絶長文になっちまいましたので、
その2に続きます。


「ジュリーのシングル曲で昭和女性史」を考えてみよう、
という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。
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さて、この曲はさっくり行きますよ。たぶん。
なぜ「さっくり」かと言いますと、
この「あなたへの愛」は、この前までの、
「許されない愛」「あなただけでいい」「死んでもいい」
「不倫三部作」の別シーンを描いた曲っぽいからです。
世界観は同じと思われますから、
ここに出てくる「あなた」の女性像は、
前の記事をご参照ください。

でも、世界観は同じなんですが、
「あなたへの愛」が「不倫三部作」とは、
決定的に違うところがあります。

「あなただけでいい」とか言っていた「不倫三部作」ですが、
実はこの3曲の中に「あなた」自身は登場していません。
「あなた」と「僕」が、今どうしているか、
ということが描かれていないんですよ。
「僕」が「忘れられない」とか「抱きしめたい」とか
言っているだけです。
「死んでもいい」では、
「髪をとかし 灯り消して」とか、
「ひとりの午後 窓にもたれて」とか、
一応「あなた」の描写らしきものが入っていますが、
これは全部「僕」の脳内です。
「僕など余計もの」だから、
「あなた」のそばにはいられないんですよ。
なので、
「あなた」はこうもあろああもあろと、
完全に妄想劇場です。
もしかしたら「あなた」は今ごろ、
どスッピンで髪の毛ひっくくって、
胡座かいて焼酎かっくらってるかもしれないのに。
愛しているがゆえに、
そして、会えないがゆえに、
「僕」の中で「あなた」は、
限りなく美しい女性に描かれています。
だからこその、「あなただけでいい」「死んでもいい」
なわけですけどね。
妄想の中の女だったから
そこまで想っていられたってことも、
多少はあったんじゃないか、なんて、
汚れっちまった私としては思ったりもしますね。

それが、「あなたへの愛」では、
その「あなた」が「僕」の前に登場しています。
「あなた」はなにか悲しく聞こえることを言い出し、
いつもなら自然とつなぎ合う手もつながない。
要するに別れ話シーンてことで、
時系列で言ったら「不倫三部作」の
前のお話ってことになるんでしょうか。
「僕」は「あなた」への愛を抱きしめて今日まで来たのに、
「あなた」は別れると言っているらしい。
「不倫三部作」では、もう別れることは決定事項で、
でも「忘れられない」「死んでもいい」とか、
「僕」はひとりで悶々としているんですが、
この「あなたへの愛」は、そうなるに至る過程での、
「あなた」との最後の逢瀬ってとこですかね。

「許されない愛」の作詞は山上路夫さん、
「あなただけでいい」がZUZUさん、
「死んでもいい」が山上路夫さん、
で、この「あなたへの愛」が ZUZUさんと、
この4曲は、山上路夫さんとZUZUさんが
交互に作詞しています。
最初の「許されない愛」
コンセプトアルバムからのシングルカットで、
前の記事で書いたように、
そこにはかなりはっきりしたストーリーがありました。
次の曲はその世界観を生かしたものに
というリクエストがあったのかどうかはわかりませんが、
ZUZUさんが作詞した「あなただけでいい」は、
明らかに「許されない愛」のストーリーを引き継いだものでした。
「忘れられない」「忘れよう」とか、同じフレーズも出てきます。
そして、そこには情景描写も「あなた」の姿もなにもなく、
ただ「僕」が虚しい夜に「あなた」を呼びつづけているだけです。
その次の「死んでもいい」では、今度は山上路夫さんが、
ZUZUさんの「あなただけでいい」の最後のフレーズ、
「それで死んでいい」をそのままタイトルにしてしまっています。
内容もまたほぼ同じですね。
あいかわらず「僕」の心情だけがぐだぐだと…じゃなかった、
切々と語られていて、今の情景はほとんどありません。

で、次にまたZUZUさんにバトンタッチされたわけですが、
同じことを繰り返すのはもうイヤだと思ったのか、
もしくは作曲の加瀬さんからなにかリクエストがあったのか、
世界観は同じだけれども、
少し違う角度から見た歌詞になっています。
今まで会うことのなかったふたりが一緒に歩いています。
でも、いつもなら自然につなぎ合う手もつながず、
分かり過ぎる程のあなたの気持ちを傷つけるつもりはないのに、
でも傷つけてしまう……。
ということは、言葉を交わせる近くにいるってことですよね。
「星もまばらな夜」
「遠い道」
「つなぎ合う手と手」
「冷たい指先」
「風の吹く日」
と、今ふたりが置かれている情景と
今ここにある「あなた」の手や指の描写が出てきます。
そして、その情景描写でもって、
この恋が「僕」の思い通りにはいかないということや、
悲しい気持ちを表現しているわけですね。
「あなた」と「僕」が悲しい気持ちのまま、
ふたりで歩く様子が目に浮かびますが、
ZUZUさんらしいおしゃれな雰囲気もあって美しいです。

あと、「死ぬ」「死ぬ」連呼がないところも
「不倫三部作」とは違ってますね。
私は実はこの曲はリアルタイムで聴いた記憶がなくて、
ジュリー堕ちしてから知ったんですが、
ソロになって2年目の5曲目とかではなく、
1990年ごろとか、
もっとあとの時期の曲かと思ってました。
最初に聴いたのが、たぶん40歳前後のジュリーが歌う
動画でだったせいということもありますが、
(まあ、シングルのオリジナル音源では、ザ・歌謡曲って感じのちょい大げさなオーケストラアレンジで、そのバージョンで聴けば、「ああ、昭和だなあ」と思うんですけどね)
初期曲の「不倫三部作」のような自己中な
「僕が」「僕が」ではないことで、
ちょっと大人なジュリーっていう感じがしたんですよ。
加瀬邦彦さん作曲のメロディが、
穏やかで明るい曲調というのも影響しているかもしれません。

でも、「僕」の様子は若干変化しているとはいえ、
「あなた」が「僕」の愛には応えられないと、
頑なに言っているというところは変わっていません。
それに対して「僕」は、
「愛を引き止める鎖があるなら」
「二人つながれて どこまで行きたい」
と言うんです。
「いつもなら自然につなぎ合う手と手」が
もうつながれないのなら、
鎖で無理矢理にでもつないでしまいたいってことですね。
「あなた」のほうは
「悲しく聞こえる」こと…たぶん別れたいということを
言い出しているのに、鎖でつながれたいとか、
「死んでもいい」とも違うストーカーちっくな一途さで
ちょっと怖いですけどね。

ところで、今回あらためてこの歌詞をじっくり読んでいて
ふと思ったんですが、
この歌詞って、「君をのせて」の後日譚的な意味合いにも
考えられるような気がしませんか?
「遠い道」「風」と共通する単語が出てきますし、
「つなぎ合う手と手」とか「楽しかった二人」とか、
「不倫三部作」の人妻と若い男の物語ってのよりも、
もうちょっと対等な恋人同士っていう雰囲気も漂ってるような。
なので、多少強引に「君をのせて」との関連で、
この「あなたへの愛」を解釈するとすれば……

風に向かいながら遠い道を歩くのも、
肩と肩をぶつけ、手と手をつなぎ合うままの関係なら
楽しかったのに、いつの間にかすれ違ったふたり。
「あなた」が言い出す言葉は悲しく聞こえ、
愛も途切れがちで、風に負けて泣いている。
「僕」は「あなた」を乗せる舟になろうとしたけれど、
「あなた」が乗ってくれなければどうしようもない。
愛を引き止める鎖があったら、
「あなた」を無理矢理に引き止めて、
二人つながれてどこまでも行きたいけれど、
それは「あなた」を傷つけるだけ。
ああああ〜〜……

「君」が「あなた」になっちゃってますが。
ま、ふたりともちょっと大人になったということで。
そして、大人になったふたりは、
若者のころのように自由にばかりは
やっていられなくなったようです。
男女が対等に肩を並べて歩いているうちはよかったけれど、
相手を愛するということは執着することでもあって、
それが高じると相手を束縛したくなってもきます。
いつまでもお互い自由でいたいよね、という
新しい時代の男女関係とは相いれません。
「死んでもいい」ほど愛している「あなた」だから、
「僕」は鎖で繋いででも引き止めたいと思っているけど、
そうすると「あなた」との愛は成り立たなくなってしまう。
自由な新しい恋愛関係とか男女関係とか言っても、
深く愛せば愛すほど理想ばかりを言ってはいられないんだよ。
という、「君をのせて」に対する、
ZUZUさんからのひとつの回答だったのかもしれません。
切ないですなあ。

しかし、
「愛を引き止める鎖があるなら 二人つながれて」
とかって、これがジュリーじゃない、
もっと男っぽい人が歌ってたら、
「女の気持ちはどうなんだよっ!」
「鎖になんかつながれたくないわ!」とか、
上にも書いたように、
「ストーカーか!」と
ツッコミ入れたくなる気がするんですが、
これが、若くて美しいジュリーが歌うことで、
ジュリー自身が「あなた」でもあるかのように思えて、
まさに「あなたの気持ち」は
「分かり過ぎる程」分かってるんだなと、
自然と思えてしまうから不思議です。
最後のフレーズの「どこまで行きたい」は、
意味的には「どこまでも行きたい」なのを
譜割りに合わせて「も」を取ってしまったのだと思うんですが、
これを「どこまで行きたい」としたことで、
なんだか舌っ足らずな感じになって、
あのジュリーが必殺上目遣いで、
「どこまで行きたい?」と「あなた」に尋ねているようにも
聴こえるんですよね。
そんなジュリーの鎖にだったらどんどんつながれて、
どこまでだって行きますよ!
てなもんですよねえ。


と、結局これも長くなってしまいましたが、
今回はなんとか1回分の記事に収まったか?


というわけで、以下は「裏」解釈ですー。

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「ジュリーのシングル曲で昭和女性史」を考えてみよう、
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どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。
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「許されない愛」「あなただけでいい」「死んでもいい」
3曲まとめての記事・その2からの続きです。


ところで、「天の夕顔」を今回ぱらぱらと読み返していて、
「でも男の方は何でも好きなことがおできになりますから……」
というヒロインの台詞を見つけ、
あれ、これ同じような歌詞がジュリーの曲にもあったな、
この不倫三部作のB面だったりしたらドンピシャじゃん、
と思って調べたら、
「男の人は自由に生きられうらやましいわと口癖なのに」
というフレーズが入っている「若き日の手紙」は、
なんと1977年の「勝手にしやがれ」のB面でした。
30年どころか40年経っても変わらない女性像って、
どうなんですかね。
しかも、「若き日の手紙」の最後では
「無茶をしてみませんか〜〜!!!!」と、
急にジュリーがブチ切れシャウトをし始めるんですが、
「天の夕顔」でも、それを言われた「わたくし」は、
「目の前が見えなくなるほどの嚇怒に言葉も荒げて」
自分をそういうありふれた人間と思ってたのか!と叫び、
「わたくしの気持ちも知らないで」と、
必死の弁明をするんです。
そういう男の反応もどこか似ています。
なんなんですかね。
男の人は女にこういうことを言われたいんですかね。

たぶん男は、女はなにもわかっていないんだということを
言いたいんじゃないでしょうか。
自分はこんなに命までかけて「あなた」を愛しているのに、
「あなた」は「男は自由でいいわね」とかなんとか、
大人のふりをして年上の余裕らしきものを見せて、
この恋を終わらせようとしている。
そんなことで「僕」はごまかされないぞ!
「僕」は男で自由だから
「あなた」と恋愛しているんじゃないんだ!
真剣なんだー!
ということです。
そこで、
「命かけた愛」「死んでもいい」ですよ。

また「天の夕顔」の話に戻りますが、
【稀人舎通信8号】の座談会中の金井さんの解説で、
結婚式で初めて顔を見た状態が当たり前だった時代に、
好きな人と恋愛する結婚するということは、
「手が早くて困ったもんだ」みたいに軽く見られることだった、
というお話がありました。
そんなふうに恋愛自体が不真面目なものという世界観の中で、
「僕は真剣にあなたを愛しているんだ!」
ということを訴えるためには、
「命かける」「死んでもいい」というふうに言うことが
有効だったのではないでしょうか。
しかもそれを、黙っていれば女なんかよりどりみどり、
軽い恋愛を渡り歩いて遊んでてもよさそうな、
美しいジュリーがふるふるしながら言うんですよ。
効果抜群だったことと思います。
てなわけで、この「不倫三部作」は、
「死ぬ」「死ぬ」のオンパレードだったんじゃないでしょうか。

「僕」は死ぬほど真剣に「あなた」を愛しているのに、
「あなた」はそれに応えない。
ああ、ジュリーってばかわいそう!
と、ファンは身悶え、
一方、世間の男たちや大人たちから見れば、
「あなた」はジュリーのような男に死ぬほど愛されても、
「男の人は自由だから」なんて見当違いなことを言い、
その愛には応えずに「やさしい人を待つ」理想の妻であり、
自分たちに都合のいい女性像であるために、
その物語自体は安心して消費することができました。

そんなこんなの、フェミニズム的にはかなり問題がありつつも、
ちょっと古い世界観に古いタイプの女性を登場させた
「不倫三部作」は、全方位的に受け入れられヒットしました。
ジュリー自身も、
こういった物語性のある曲のほうが歌いやすかったのか、
「君をのせて」のときよりもノリノリで、
曲の中の「僕」になりきって歌ってるような気がします。

そういえば、「君をのせて」も舟と海の歌ですし、
「許されない愛」の収録アルバム「JULIE Ⅱ」のコンセプトも、
港町に流れ着いた少年と船乗り(の妻)ですが、
ここはイメージを継承したってことなんでしょうか。
ジュリーに限らず、昭和歌謡とか演歌って、
港町、船乗り(マドロス)、港の女ってのが多いですよね。
なんなの? 男のロマン? 願望?
当時は今よりもたくさん船乗りがいたわけでもないでしょうし、
そういう歌に出てくる港町ってのは、どうもイメージとして、
普通の日本の漁港とか漁村とは違います。
特にジュリーが歌うとそれは、南仏とか地中海とかそんな感じ。
完全に架空の世界です。
船乗りとそれを待つ港の女ってのは、
男の妄想込みの「絵空事」の記号だったのかもしれません。
「港町」「船乗り」という単語が出てくることで、
これは「お話」なんですよ、ということになり、
受け取るほうは映画やドラマを観るように歌を聴き、
楽しむことができる。
歌い手もその絵空事の世界を歌で演じる。
(はっ!「演歌」ってのはそういう意味か? たぶん違う)
若い男に愛される人妻ってのも同じです。
現実にはそうそうあるわけではない、
でももしかしたらあるかもしれないし、
自分もそんな状況になったらどうしよう
と妄想することはできる。
そのぐらいの絵空事な感じ。
ジュリーも、実際の恋人が年上ということ以外は、
自分とはまったくかけ離れた世界を歌うほうが、
その世界の「僕」を演じやすかったのかもしれません。
そうして、歌の世界に入り込み、その登場人物たちになりきり、
その世界を映画のように表現してみせるという、
ジュリーのボーカルスタイルができあがっていくんですね。


と、「許されない愛」「あなただけでいい」「死んでもいい」
「不倫三部作」の、私の解釈でした〜。
ああ……、もんのすごく長くなってしまった。
あれもこれも詰め込んでわけわかんない感じになりましたが、
要するに、
こんな男もこんな女も、いくら72年つったって古いよねー、
ジュリーが歌ってんじゃなかったらイヤだよねー、
ジュリーだから美しい話になるんだよねー、
っていう、そういうことです。

余談ですが、「許されない愛」はロンドンレコーディングで、
演奏も向こうのミュージシャンがやってるそうで、
ホーンセクションの「♪ぴゃぴゃぴゃぴゃぴゃぴゃぴゃ〜〜〜〜」
という音階が上がっていくところを、
「もっと上げろ! もっともっと!」と、
アレンジの東海林修さんがムリを言ってさー、
白人って顔が赤くなるとほんとに真っ赤になるんだよ〜、
と、ジュリーが近年のラジオで語ってましたが、
自分のレコードの伴奏だっていうのに、
スタジオの隅っこで(たぶん)
「ほえ〜〜、真っ赤になっとるなあ」とか、
まるで他人ごとのように、
音楽と関係のないとこでおもしろがってる
23歳ジュリーを想像すると萌えますね(笑)。



で、この先は「裏」解釈でございます。
【続きを読む】



「ジュリーのシングル曲で昭和女性史」を考えてみよう、
という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。
カテゴリは【ジュリーシングル曲で昭和女性史】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。




「許されない愛」「あなただけでいい」「死んでもいい」
3曲まとめての記事・その1の続きです。
またしても長いです。


この「不倫三部作」のストーリーは、
その1で語ったように、
現実ではいつまでもジュリーばかりを
見ているわけにはいかなかったファンたちの状況に
ぴったり合って、ヒットしたわけですが、
このストーリーに登場する「あなた」という女は、
主に男性視点である世間様から見ても
都合のいいものだったんじゃないでしょうか。
世の奥様たちがみんな、ジュリーみたいな若い男と、
ふらふら不倫してたら、そりゃあ大変ですが、
でも、ジュリーの歌の中の女は結局は若い男とは一緒になれず、
元の結婚生活から逸脱することはありません。
女とはそういうものだよ、と言っているわけで、
現実の結婚相手の男たちにしてみれば、
夢の世界はそれはそれとして、
結婚生活の破綻はなく、ひと安心ということです。
若い男のほうも、「命かけた愛」とか言うわりに、
実際に奪って逃げるわけでもないようですしね。
逃げるのは自分だけです。

「許されない愛」が収録されているアルバムのストーリーでは、
主人公の「僕」が好きになったのは、
尊敬している大事な友達でもある船乗りの奥さんで、
奥さんのほうは、連れて逃げてよ的なことを言ってるのに、
「僕」は、尊敬する男の幸せを奪うことはできないなんつって、
身を引くんですよ。
んなこたわかってんだから、
最初から関わるなっつう話ですけどね。
ま、愛は止められなかったてなとこなんでしょうけど、
勢いに任せてヤっちゃったんなら、
最後まで責任取れってんですよ。
その奥さんは、その後どうしたんでしょうなあ。
アルバムの最後の曲「船出の朝」では、
「朝のお茶をいれ きっとあの人は
 僕のことなど 忘れるよ」とか言ってますし、
流れから察するに、
船旅から戻ってきた旦那と元の暮らしを続けるんでしょうが、
これって、男には超都合のいい話ですよね。
若い男のほうにも旦那のほうにも、どっちにも。

「僕」は、愛を失って苦しんでるようですが、
ま、下世話に言えば「ヤリ逃げ」。
旦那のほうは、留守の間のできごとですから、
なんとか隠しおおせてなにも知らないままなら幸せだし、
もし仮にバレてしまったとしても、
「僕」はもう遠くへ行ってしまっていて、
奥さんはどこにも行かず、自分のそばにいる。
そこは大人力を発揮して、なにも知らなかったことにすれば、
丸く収まるって寸法です。
女は連れて逃げてもらえなかったらどこにも行けず、
旦那の元にいるしかないんです。
1972年の現実の女はもうちょっと主体性があるんじゃないかと
思うんですが、ジュリーが歌うこの世界の女は
勝手に自分ひとりで若い男を追いかけて出ていったりはしません。
そんな世界なんですよ。
よかったデスネ(毒)。

しかも、このアルバムの最後と最初は同じ効果音を使ってて、
ループしてるんですよ。
「僕」は、傷付いて船出して、流れ着いた別の港町で、
また同じヤリ逃げを繰り返すんかと、
さすが、のちの「ダーリング」水兵さんだぜと、
思わず毒づきたくなったりしますが、
まー、これは文学的に解釈するなら、
「僕」=ジュリーは、この物語の中に閉じ込められて、
外=現実には出てこられないということなんでしょう。
「僕」は、命かけて愛したたったひとりの「あなた」と、
繰り返し出会い、そして別れる。
そのたったひとつの物語だけを繰り返すんです。
その先はありません。
「死んでもいい」でも、
「僕は旅の果て これより先はないから」って言ってますしね。
大人になった少年が戻ってきて、
やっぱり「あなた」がいい、とか言って旦那と対決したり、
「あなた」がどこかで偶然、少年とまた巡り会って、
焼けぼっくいに火がついて…なんていう続編はありません。
「あなた」は「僕」が去ってしまったことを嘆きながらも、
元の暮らしに戻り、もうそこから動くことはありません。
「僕」=ジュリーは、現実世界には影響しないんです。
「あなた」に自分を投影して、ぽわわ〜んとなるにせよ、
フィクションとしての恋愛物語を楽しむにせよ、
ジュリーの歌う「不倫三部作」は、
閉じた架空の世界のことにすぎません。
現実の男たちは
「あんな夢物語に夢中になって、女はしょうがないな」
とかなんとか言いつつ、日常は変わらず、
奥さんは家事をやり子育てをしていて、
安泰なわけですね。うぎー。

そしてこれは、当時の親世代の価値観とも合致していました。
72年当時に20歳前後の子供がいる親世代と言えば、
当時40〜50歳ぐらいでしょうか。
大正から昭和ヒトケタぐらいまでの生まれで、
1930〜40年代に青春時代を過ごされた方々が
ほとんどじゃないかと思います。
その時代は戦争があったりで大変な時期ですし、
戦後は社会全体が激しく変わったとはいえ、
終戦までの日本は(家や地域によっては終戦後も)
家父長制という家単位の考え方が主流でした。
家の中ではお父さん(もしくはお祖父さん)の言うことは絶対で、
家族、特に女性はそれに従わなければなりませんでした。
その家父長が、きちんと責任をもって家族のことを考えて、
それぞれの進路なりを指示してくれればいいんでしょうが、
世の中、そんなにできた人ばかりではありません。
結果、女性差別とか人権侵害とか、
いろいろと問題の多い形になってしまったわけですが、
それが「問題」だと認識されるのは、ずっと後のことです。
戦前は、男も女も、親が決めた、ときには顔も知らない相手と
結婚することが普通のことでした。

以前作った同人誌【稀人舎通信8号】
特集「恋愛という物語」の座談会中で、金井景子さんが、
「天の夕顔」(中河与一)という小説を紹介してくださったんですが、
これは、1938年に発表され、戦中戦後にわたって45万部を売った
浪漫主義文学の名作と言われています。
内容は、まさに「許されない愛」の世界。
「わたくし」が学生時代に出会った人妻に恋をし、
想い合って、何年もくっついたり離れたりするんですが、
決して結ばれることはないという恋愛物語です。
人妻は「わたくし」といい感じになるたびに、
「もうお目にかかれません」とかなんとか言い、
でもまた会えば「会いたかった」的なことを言って、
気を持たせたりするのに、また拒絶するの繰り返しです。
「わたくし」はその何年間かの間には、
別の娘と結婚したり、その結婚生活が破綻すると、
また人妻に会いにいってまた拒絶されて
山に籠もったり(!)し、
最後は人妻のほうが死んでしまっておしまいです。
この物語のどこがよくて名作とされているのか、
私にはさっぱりわからなかったんですが、
紹介してくれた金井さんによれば、
「許されざる関係性の中で愛が勃発して、
 それに結婚という形の終着駅を求めないけれども、
 決定的にお互い心の中に相手が大きな位置を占めていて、
 人生を苦しむという物語であり、
 これが戦前の家父長制の中では好きな人とは絶対結婚しない、
 という状態の中でリアルな恋愛として受け取られた」
ということでヒットした作品だったというのです。
1938年といえば、まさに1972年ごろの親世代の青春時代。
彼らは、こういう恋愛小説をリアルだと感じて読んで、
ぽわわ~んとしていたんですよ。

というわけで、
男女が並んで歩く「君をのせて」の恋愛観は
受け入れられなかったかもしれない親世代の大人たちも、
「天の夕顔」と同じような世界観の「許されない愛」なら、
馴染みのある恋愛物語として
受け入れられたんじゃないでしょうか。
1971年の進歩的な恋から、
一気に30年以上も時間を巻き戻してしまったわけですね。
72年当時の日本は、戦後27年が経ち、
民主主義の国になってはいましたが、
戦前に生まれ、教育を受けた人たちが
まだまだ実権を握っていた社会です。
若者たちがいくら自由を謳歌していても、
やはり、そのころの日本のフォーマルと言えば、
戦前の家父長制が幅を利かす世界だったように思います。
少女漫画でも、70年代はまだ、
「親の決めた許嫁」ってのが出てきて、
それに反発して……というお話がいっぱいありました。
私のような庶民とは違う、ちょっと上流階級の家で、
着ている服もインテリアも、もちろん男の子も、
みんなキラキラしている世界のお話です。
私もそういう漫画を普通に読んで、
普通にぽわわ〜んとなってましたよ。
「君をのせて」の記事中でも書いたように、
ジュリーというキャラは、なんとなく育ちのよい雰囲気があって、
ゲバ棒持ってデモに参加したり、
もさもさの長髪にして破けたジーンズに下駄履きよりも、
たとえ長髪でも、フォーマルスーツで
年上の女性をエスコートしている姿のほうが
似合うイメージがあります。
当時の重苦しい少女漫画(一条ゆかりとかですね)に登場する
男の子キャラはどう見てもジュリーですねってのが、
わんさか出てきてましたよ。
ジュリーは王子さまってだけあって、
こういう旧態依然とした世界観のほうが
しっくりきたってことでしょうか。


続きます。
まさかの3回連載。
まあ、3曲分ということなので、
よろしかったらもう少しお付き合いくださいませ。


「ジュリーのシングル曲で昭和女性史」を考えてみよう、
という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。
カテゴリは【ジュリーシングル曲で昭和女性史】
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さて、ここからがジュリーの本領発揮です。
と言いながら、3曲まとめての記事ですみません。
だってね、
この3曲は、私は密かに「不倫三部作」と
名付けているんですが、
内容はどれもほぼ同じなんですもの。
要するに、
死ぬほど愛しているのに、
あなたは僕の元にはいてくれない
あなたへの愛のためなら死んでもいい
と、こういうことを3曲かけて歌ってるわけです。

もうね、それぞれに
「命かけた愛」
「それで死んでいい」
「愛のため 死んでもいい」
なんてフレーズが入っていて、
前曲の「君をのせて」での、
肩と肩をぶつけながら歩くとか、舟にのせるとかの
ヌルい話じゃありません。
命かけちゃってます。
「死んで(も)いい」なんか
「あなただけでいい」「死んでもいい」
両方に出てきます。
タイトルにもなってます。
激しすぎる。

だいたい「死んでもいい」ほどの「許されない愛」って、
どういうシチュエーションですかね?
平凡な人生送ってる一般人である私には、
不倫ぐらいしか思い付かないんですが、
他になんかあるでしょうか。
ジュリーがゲスト出演した
71年のドラマ「太陽にほえろ!」の
「そして、愛は終った」みたいな近親相姦とか?
あれは叔母さんの不倫でもあったから
ダブルで「許されない愛」ですな。
しかもそのために殺人まで犯しちゃって、
その動機を隠すために死んじゃうってんですから、
確かに命かけてますね。
あとは、女の人がうんと年上とかでしょうか?
あ、「そして、愛は終った」はそれも入ってるか。
完璧だな。
今ではさほど珍しくもないですが、
昔は1〜2歳でも女が年上だと、
「へえ〜」とか言われたもんです。
「年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ」
とか言われたりしてね。(古い)
価値があるものだから
時間をかけてでも探せということらしいですが、
それだけ珍しかったということですよね。
夫婦とかカップルだったら女が年下なのが当然だったんですよ。
なんでですかね?
しかも、うんと年上だと、
別に不倫でも近親相姦でもなくとも、
なんか背徳感みたいな雰囲気も漂ったりして、
女のほうは年上ってだけで、
「いけないわ」とか言っちゃったりしてな。
なんでですかね?
この3曲の中では、はっきりと年上とは言ってませんが、
「あなた」という二人称からして、
相手は年上の雰囲気が漂ってます。
これらの曲を歌っていたときのジュリーは23〜24歳。
23〜4歳と言えば、
当時世間的には結構大人な扱いだったと思いますが、
あの、ふるっふるに美しいかわいいジュリーですからね。
あんなのが「あなた」とか呼びかけるったら、
年上しか想像できません。
それに、このころジュリーは、
のちに奥様となる7歳年上のザ・ピーナッツのエミさんと
お付き合いしてたんですよね。
当然噂にはなってたでしょうから、
そのへんのリアルな背景も加味しての、
この「不倫三部作」だったのかもしれません。
別にジュリーは不倫してたわけじゃないですけどね。

そういえば、
「許されない愛」とB面の「美しい予感」が収録されている
「JULIE Ⅱ」ってアルバムは、
「港」をテーマにして作られたコンセプト・アルバムで、
通して聴くと、
どこからかある港町にやってきた、愛をなくした「僕」が、
そこで船乗りの男に出会い、だんだんと打ち解けて、
町の暮らしにも慣れていきますが、
その男の奥さんと道ならぬ恋に堕ち……
っていうストーリーになってるんですよ。
歌詞カードには、そのお話がポエミーな文章になって、
各曲ごとに載ってます。
(実は私はこのCDは持ってなかったんで、噂に聞いていていたこのポエムがどこに載ってたものなのかずっとわからなかったんです。こないだ、まさにそのアルバムの歌詞カードに載ってるということを知り、慌ててCD買いましたよ買いましたよ)
これがもうね……
「夫人は優しく微笑んだ。
 少年(少年!!?)の胸はさわいだ。
 それはなぜか知らないけれど、
 船を見送った帰り、
 二人でお茶を飲んでいる時も、別れたのちも、
 心のざわめきはとまらなかった……。」
なんちゃってなー。
ああもう、がっつり不倫ストーリーでした。
傷ついた少年に優しくしてくれて、
少年が尊敬するようになった船乗りの
若い奥さんとむにゃむにゃむにゃ……ですよ。
船乗りは船乗りですから、
船に乗ってどっか行っちゃって長期留守という、
おいしい……じゃなかった、好都合な…じゃなかった、
危ないシチュエーションなんですよ。
ありがとうございました。
(しかし、いくらジュリーだからって23歳の男つかまえて「少年」て……。このストーリーは、作詞の山上路夫さんが書いたんでしょうか。ちょっと妄想入りすぎじゃないですかね。ナイス妄想ですけど)

現実でもそうだし、ジュリーには年上の女が似合うんじゃね?

年上の女を愛してる美少年ジュリーっていうコンセプトで行こう。

現実の彼女のことを歌詞にするわけにはいかないから、
一般的にわかりやすい年上キャラの女を歌詞に出そう。

23歳のジュリーより年上つったら、
普通は結婚してる年だよなあ。

じゃあ不倫か! 許されない愛だね!

もうそれでアルバム1枚全部のお話作っちゃおうぜ!

みたいな流れか?

あと、これはちょっと邪推ですが、
ザ・タイガースからの熱狂的な乙女萌えファンたちは、
年上の彼女と噂になってることに、
やはり多少は複雑な思いを抱いていたでしょうから、
「僕」がこんなに命までかけて愛してるのに、
相手の女にはどうしようもない事情があって、
「僕」の想いには応えられない、という、
そんなシチュエーションの曲をジュリーが歌うことで、
(現実はひとまず置いておいて)
少し安心したりもしたんじゃないでしょうか。
「そうよね、あんなに年上の人との恋は実らないわよね」
みたいな。

なんにしろ、
男女が対等な、両思いの恋を爽やかに歌ってた「君をのせて」とは
世界観を180度方向転換させた「許されない愛」は、
オリコン4位までになり、
この曲で紅白歌合戦に初出場もしています。
大ヒットと言っていいですよね。
私もこれは「ジュリーの曲」として記憶しておりました。
リアルタイムで聴いていたかどうかはおぼろげですが、
あの重苦しいイントロを聴けば、
「おお、懐かしい」とすぐにメロディが蘇ります。
特にファンじゃなかった子供の耳にも繰り返し届いて
覚えてしまうくらい、テレビや街で流れていたんでしょう。

現代的な恋愛を歌った「君をのせて」より、
どっちかというと古くさい世界観の「許されない愛」のほうが
売れたのはどうしてでしょうか。

話はちょっと飛びますが、
ザ・タイガースからのジュリーファンの姉様たちって、
ちゃんとしたおうちの、いわゆる「お嬢さま」が、
多かったんじゃないかって気がしてるんですが、
そんなことないすかね?
これは別に統計を取ったわけじゃなく、
私のまわりの2〜3のサンプルから
想像してるだけなんですけどね。
GSは不良の音楽だなんて言われて、
中高生はコンサート禁止令が出されて、
会場の入口にはPTAが見張りに立っていた、
なんてこともあったようですが、
ザ・タイガースに夢中になってた女の子たちがみんな
不良だったなんてことはないと思います。
っていうか、あんなキラキラの王子さまたちを遠くから見て
きゃーきゃー言ってる不良なんていませんよ。
いいとこのお嬢さんたちだったからこその、
PTA出動ってこともあったんじゃないでしょうか。
ほんとの不良はもっとディープなところに行ってたでしょうし、
そういう子たちの親はたぶん、コンサートやジャズ喫茶ぐらい、
ダメもいいもなかったと思います。
女優の夏木マリさんが、最近のラジオでサリーと話していたときに、
「(タイガースみたいな)スターバンドには
 (まわりに)いっぱい人がいてご本人たちと会えないから、
 ちょっと売れないバンドのおっかけになるのが
 醍醐味だったんですよ。
 楽屋で出待ちしてると、ちょっと話せるわけ」
てなことをおっしゃってましたが、
それが過激になるとグルーピーってことですよね。
ほんとの不良はそこまで行ってたんじゃないすかね。
夏木マリさんが「ほんとの不良」かどうかは知りませんが。
(スケバンだったらしいですけど……)

そんな一部のディープな人たちではない大多数のファンは、
親にいやな顔をされながら、
たまには親の目を盗んだりもしながら、
ジャズ喫茶に通い、タイアップキャンペーンのチョコを買いまくり、
タクシー飛ばしておっかけしたりしてたんですよね。
そんなお嬢さんたちも、ジュリーがソロデビューしたころは、
20歳前後になってたんじゃないかと思うんですが、
「許されない愛」が発売された1972年ごろは、
女は20歳過ぎたら嫁に行け
ってなことをまだまだ言われた時代。
ええとこのお嬢さんだったら特にそうで、
すでにお見合いも何度か経験してるぐらいの年齢でしょう。
女はクリスマスケーキ(25過ぎたら価値がない)なんていう
言葉もまだありませんでした。
っていうか、あれが自虐にしろ嘲笑にしろ、
わざわざそう言われていたということは、
25歳過ぎても独身でいる女性が増えて、
なかなか結婚しない(できない)女性もいるということが
世の中に認識された結果ということだと思いますが、
70年代前半はまだ、
25歳過ぎた女が結婚の予定もなく独身でいることはありえないと、
素で思われていた時代でした。
だから、「クリスマスケーキ」なんていう言い方で、
揶揄するようなこともありませんでした。
25歳過ぎても独身でいる娘は、真面目に困った存在だったんです。
おそろしいことです。

なので、当然ザ・タイガースからのジュリーファンのお嬢さんたちも、
20歳ぐらいになった「許されない愛」のころは、
「そろそろお見合いしないと」とか、
少しは現代的な親御さんなら、
「いい人はないの?」とか言われて、
せっつかれているころです。
「いつまでも『ジュリー!』とか言ってないで、
 そろそろ現実を見なさい」とかね。
ああ、現実……。
そこで、親の言うことを聞いてお見合いするでも、
「私は結婚相手は自分で見つけるわ!」と宣言して、
まずは仕事に就くとか大学に行くとか、
どういう道を行くにしろ、
ジュリーのことは一旦置いといて、
現実の自分の人生の駒を進める算段をすることを
迫られた時期じゃないかと思います。
ジュリーがいくら、
「君をのせる舟になろう」と優しく語りかけてくれても、
現実にその舟に乗ることはできない。
「ジュリー、ごめんね」と
心でつぶやいたかどうかはわかりませんが、
自分の舟は自分でなんとかするしかないんです。
「ジュリーのことを忘れたわけじゃないのよ。
 でも、少女のころのようにジュリーと
 ずっと一緒にいるわけにはいかないのよよよ……」

というわけで、「許されない愛」ですよ!
ジュリーは、命かけて、死んでもいいぐらい、
「あなた」のことを愛しているのに、
ジュリーとともに生きることはかなわない……。
現実に親の決めた相手と結婚した方もいたでしょうから、
その感情移入っぷりったら半端なかったことでしょう。
しかもジュリーは、
死んでもいいぐらい愛している「あなた」だけど、
僕では「幸せには出来なかった」と言い、さらに、
「あなた」は「日暮れせまれば やさしい人を待つだろう」と、
「あなた」の結婚生活は幸せなものなんだよねと、
フォローまでしてくれてるんですよ。
親切すぎる。
ファンたちは、少女のころに夢見たような
ジュリーのお相手のマリーやシルヴィにはなれなくて、
他の人と結婚したり、勉強したり仕事をしたりと、
現実的な自分自身の人生を歩んではいるけれど、
ジュリーには「あなただけでいい」と愛され続けている、
という夢を見せてもらえるんです。
他の、ファンではなかった女の子たちにしても、
状況は同じだったわけですから、
夢見る頃を過ぎて、現実ではいろんな妥協も諦めもして、
生活していかなくちゃならないのは同じです。
そんな自分の現実とすこ~しリンクさせつつ、
「許されない愛」からの不倫三部作は、
ちょっと大人な夢を見せてくれる。
これが、当時のジュリーのキャラに
ぴったりだったこととも相まって、
ヒットに繋がったのではないでしょうか。


超長いですが、この記事はまだまだ続きますすみません。



「ジュリーのシングル曲で昭和女性史」を考えてみよう、
という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。
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「君をのせて」その1からの続きです。


「結婚しようよ」などのいわゆるフォークソングは、
男と対等に並んで歩く進歩的な女性像とか、
そういった男女関係に憧れた多くの人たちが聴いて、
大ヒットし、ブームになったわけですが、
それは、歌い手が「普通の」若者たちだったということが
大きかったんじゃないかと思います。
超かっこいい男の子ではなく、
ジュリーのようにキラキラに綺麗な顔をしているわけじゃない、
自分の家の近所にもゴロゴロいそうな、
長髪にしてベルボトムのジーパン履いて、ギター弾いてる、
親世代には眉をひそめられているようなお兄ちゃんたち。
実際、ド田舎の私の家の近所にもいました。
「あそこの息子さん、東京から帰ってきたら、
 髪の毛こーんなに長くなってて…。親御さんも大変ねえ」
なんつって母親が近所のおばさんと話してたのを記憶してます。
そんな、どこにでもいそうな、
匿名性の高い若者たちが歌ってるということで、
フォークソングの中の恋愛は、
普通の女の子たちにも、
もしかしたら自分にも訪れるかもしれない未来として
憧れと希望を持って受け入れられたんだと思います。
吉田拓郎も南こうせつもさだまさしも、
1971〜72年当時はまだまだ新人で匿名性が強かったし、
なにより見た目が「普通」でした。
それに比べて、ジュリーは違います。
すでにザ・タイガースで一時代を築いていて、
女の子たちだけじゃなく、ほとんどの日本中の人たちが
ジュリーのことを知っている。
しかも、そのイメージは「星の王子さま」です。
全然「普通」じゃないです。
だいたいあんな綺麗な顔をしたお兄ちゃんは、
そんじょそこらにはいません。
ジュリーのソロデビューにあたって、
当時ブームになりつつあったフォークソングで売り出したら
いいんじゃない?という(安直な)企画は、
ジュリーがもはや「普通」の人ではなかった点で、
ちと目測を誤ったと言ってもいいんじゃないでしょうか。
いくらジーンズにTシャツとかの普通の格好で歌ったとしても、
数年前まで「星の王子さま」だったジュリーですからね。
ましてや、ベルベットのフォーマルスーツなんか着て
歌われちゃったらもう、
ちょっと大人になって帰ってきた「王子さま」ですよっ。
そんなジュリーが君をのせたいと言う舟は夢の国の舟のようで、
そういう意味での憧れはあったかもしれませんが、
全然現実的ではありません。
しかも、そんな夢の舟に乗せてくれる星の王子さまと
肩と肩をぶつけるなんて、できなくないですかっ!?

以前にここで長々と語ったように、
ジュリーというキャラクターは空っぽで、
発信するべきメッセージをその中に持っていません。
少なくとも、持っていないように見えます。
与えられた歌の主人公になりきり、
その世界をその都度表現するという歌い手です。
「君をのせて」では、ジュリーはこの「僕」になりきり、
肩と肩をぶつけながら一緒に遠い道を歩く彼女のいる
かわいい「僕」を演じているだけなんでしょうが、
この曲に関しては、時代とリンクしている
その世界観が妙にリアルだったために、
ジュリー本人と「僕」との間が近く感じられ、
聴いてるほうはどういう受け取り方をしたらいいのか
わかりにくかったんじゃないでしょうか。
「君をのせて」の「君」は結構リアリティを持った
新しい「女」として描かれていて、さらに、
現実に「これからはこうありたいね」と言われているような、
新しい男女関係が歌われている。
ただただ、君に恋をした、君に会いたい、愛してる、と、
自分の恋心を訴えていたザ・タイガースのころの曲とは、
ちょっと違います。
この「僕」は、私の知ってる星の王子さまのジュリーじゃない……。
ザ・タイガースからのファンたちは、
そんなふうに戸惑ってしまったのかもしれません。
この「君をのせて」は枚数的にはあまり売れず、
大ヒットとはならなかったようですが、
そのへんに原因があるんじゃないかと思います。

ジュリーはこの曲が難しくて、歌うのが
「イヤだったわー」「もう、すっごいイヤ」
とか言ってましたが、
メロディが難しいのはもちろん
(音域が広いんですよね。私はカラオケで自爆しましたw)
ジュリー自身、その世界にうまく入り込めなくて、
どう歌ったらいいかわからなかったということも
少しはあったんじゃないでしょうか。
当時のテレビ番組で歌うジュリーを
YouTubeで見たことがありますが、
なんだかぼや〜んとしていて、
その後の「許されない愛」以降、
いろんなアクションや表情で歌を演じていたのとは
ちょっと様子が違う印象がありました。
ま、ぼや〜んとしたジュリーもかわいいからいいんですが、
それは後追いで見ているから思えることで、
当時は、なんだか今までのジュリーとは違うなあとか、
ソロはこういうイメージでいくのかしら?とか、
それまでのファンも様子を見てるっていうところも
あったんじゃないでしょうか。

この曲は、72年公開の映画「虹を渡って」の
劇中歌として使われていて、
石本昭夫という役で出演していたジュリーが、
ヨットの上でギターを弾きながら歌うシーンがあるんですが、
その時は、そんなにぼや〜んとした感じはしません。
おそらくジュリーは、映画では、
主演の天地真理扮する星野マリのことが好きな
石本昭夫という人物になりきっていて、
その世界観をしっかり掴んでいたからじゃないかと思います。
やっぱりジュリーにとって、
歌うことは演じることだったんじゃないでしょうかね。

これと同じ現象は、9年後の「ロンリー・ウルフ」のときにも
現れているように私は感じていて、
詳しくはその記事で語ろうと思いますが、
「ロンリー・ウルフ」も、ある物語のワンシーンというよりは、
現実と地続きなリアルな男の心情を歌った曲で、
そういう曲をジュリーが歌うとどうもそぐわないというか、
うまくハマっていない感じがします。
どんな曲も、その世界の人物になりきって演じ歌い、
見事に表現する、ジュリーはそういう歌手だと思いますが、
曲によっては、そういう表現方法では、
うまくいかないものもあるということでしょうか。
ま、これは私の個人的な感想ですので、
そんなふうには感じない、
ジュリーが歌う「君をのせて」「ロンリー・ウルフ」
大好きという方も、もちろんいらっしゃると思います。
そこはそれ、
ジュリーの楽しみ方は人それぞれですからね。

最近のライブでジュリーはこの曲をよく歌うんですが、
今ジュリーが歌う「君をのせて」は、私も大好きです。
ジュリーが星の王子さまだったのは
もう45年以上も昔のことになり、
その間、ジュリーにも聴いているこちら側にも
いろーんなことがあって、
いろーんなリアルを積み上げてきたおかげで、
ジュリーが歌で表現する世界観もバリエーションが増え、
肩と肩をぶつけて歩く関係性も、
君をのせる舟になろうという男=ジュリーの気持ちも、
素直に受け取れるようになったのかもしれません。
ソロデビュー曲だからか、なにか特別な思いがあるのか、
ジュリーが本当に大切に歌っているのが伝わってきますし、
この曲を歌ったあとにする、
片足を引いて胸に手を当てる、bowというお辞儀も
優雅でかっこいいです。
あと、若ジュリーに「君をのせる舟になろう」って言われても、
その舟は一体素材はなにでできてるの?とか、
耐久性はどうなの?とか、
いらん心配をしてしまいそうですが(失礼w)、
今ジュリーだったらどっしり安心、
大船に乗った気持ちになれそうな、そんな感じがしますしね。
(もっと失礼かwww)

なんにせよ、こうして長々と述べた理由により、
ジュリーのソロデビュー曲にして、
シングルラインナップの中では、
ちと異色な「君をのせて」ですが、
楽曲としては、本当にいい曲だと思います。
上でも書いたように、
いろんな要素が盛り込まれた歌詞も
新しい時代の若いふたりの恋を提示していて秀逸です。
ジュリーがこのあと路線変更せず、
フォークソング路線でずっとシングルを出し続けたら、
もしかしたら、全然違うタイプの歌手になっていたのじゃないか、
なんて思ったりもして、
そういう妄想もまた楽し、です。


と、ここまでが、「君をのせて」の「表」の解釈です。
超長文になっちまいました(笑)。
こんな調子で「灰とダイヤモンド」まで完走できるんだろうか…。
たぶん、こんなにたくさん語れない曲もあると思うので、
大丈夫大丈夫……(だと思いたい)





で、ここから先は「裏」の解釈です。

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