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ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。
カテゴリは【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。




間が空いてしまっておりますが、
なんともかんとも、この曲については、
いいも悪いもないといいますか……。
だいたい、元はフランス語だし、
日本語の歌詞のほうは、
世界観も「あなた」の女性像も
「不倫三部作」と同じような気がしますしね。
なので、さらっとやろうかと思います。

これは言わずと知れた、
ジュリーのおフランスデビューシングル
「MON AMOUR JE VIENS DU BOUT DU MONDE」
の日本語盤です。
フランス盤のほうの意味は、
「世界の果てから僕はこの街にやってきたばかりで、
 なんにもわからないんだよ。
 だから、誰かこの街のことをいろいろ教えてほしい」
と、要するにナンパをかましている歌です。

と、ジュリーがライブのMCで解説してましたね。
ナンパ、なのか……(笑)。
フランス盤シングルのリリースは1975年1月。
26歳の美麗若ジュリーですよっ。
あんなのがピンクのスーツ着て、
舌っ足らずなフランス語で
「恋人よ、僕は世界の果てからやってきたんだよー」
なんちゃったらもう、フランスの姉様たちは
ノックダウンだったでしょうよっ!
「教える教える、なんでも教えるううう!」
てなもんじゃないですかねっ!?
イギリスでリリースされた「愛の逃亡者」とは違って、
これは、ジュリーのために作られた楽曲ですから、
ジュリーのかわいらしい美しい容貌と
(海外では日本人は若く見られるようですし)
日本という、当時はまだよく知られていない国から
はるばるやってきた男の子という特徴を
最大限に活かした歌詞ですよね。
フランス語がちゃんと聞き取れないと何度もダメ出しされて、
ジュリーは泣きながらレコーディングしたと言ってましたが、
その、ちょっと聞き取りづらい片言のフランス語も、
かわいい!萌え!って感じだったんじゃないですかね。
今、韓流スターにハマっている私の友人も
「日本語が下手なところがいいのよー」
って言ってましたよ。

一方日本語のほうの歌詞は、
最初にも書いたように、
だいたい「不倫三部作」の「僕」とキャラは同じような、
「あなた」と別れて悲しいよーってな内容です。
でも、「追憶」「白い部屋」の相手とは違って、
この「あなた」は生きてます。
「あなたを残し」ですから、
「あなた」は「僕」と一緒に巴里に来ることはできず、
日本に残ってるってことですよね。
まあ、たぶん夫の元にとどまってるんでしょうな。
「僕」は自分の愛に応えてくれない「あなた」に
見切りを付けて、遠い異国に傷心旅行にやってきた……
ってとこですかね。
しかし、
「あなたをなぜ残し ここへ来たのだろう」って、
自分の意志で巴里にやってきたようなのに、
「帰らぬあの日が 心に痛い」とかって、
「僕」はぐずぐず後悔しているようです。
でもま、「不倫三部作」の「僕」と同じキャラだとしたら、
ぐずぐずしてるのは通常運転でしょうか。
遠く離れた異国に来ても、
想うのは「あなた」のことばかり、
「僕」は「あなた」を忘れていないよ〜
ってことですね。
日本語の作詞は山上路夫さんですし、
そのあたりのイメージを継承してもいるんでしょうけど、
なによりこれは、
現実のジュリーとリンクしている歌詞なところが
うまいなあと思うんですよ。

このときのジュリーは実際にフランスに行って、
現地でレコーディングしたりテレビに出たりしてるわけで、
日本のファンにしてみれば、
ジュリーが海外でも認められるのは嬉しいけど、
でも、遠く離れていっちゃうのはいや〜!
ってなところでしょうか。
少なくとも制作側の大人たちは、
ファンたちはそう思うだろうなあと思ったんでしょう。
なので、その気持を汲むべく、日本語盤は、
「何を見てもあなた かんじるばかり」と、
「日本のみんなのことも忘れてないよー!」
という、フランス盤とは逆方向を向いた歌詞に
なってるんだと思います。
だって、フランス盤の歌詞を直訳したら、
ジュリーってば、
「僕はここで生きていくんだ」なんちゃって、
パリジェンヌとうまいことやりつつ、
前向きにフランスライフを楽しもうとしてる内容に
なっちゃうじゃないですか。
それじゃあ日本のファンはショックだろうてんで
作られた日本語の歌詞ですよね、きっと。

海外進出の夢を追いかけて巴里にやってきたけれど、
日本に残してきた「あなた」=ファンのことが
忘れられないんだ。
「僕」=ジュリーはまぶしい街(パリ)でひとりなんだ。
孤独だよ……

みたいなー。

そんなん言われたら日本のファンたちは
「私たちは日本でずっとジュリーのことを待ってるから!」
「ジュリーはひとりじゃないよ!」
ってなるじゃないですか。

でも、実際の当時のファンの姉様がたは、
案外冷静に「がんばってー」と
応援してたんじゃないかと思うんですけどね。
ジュリー自身も
「日本での宣伝のためというか、
 パブリシティのためであって、だから、
 むこうで仕事するというのが目的ではなかった」
とか、
「あくまでも日本で第一線で活躍していくということが
 大事だと思っていたし、
 (中略)
 日本を捨ててまで勝ち目のない賭けをやるつもりはなかった」
とか言ってて(「我が名はジュリー」より)、
あくまでも軸足は日本においているという意識だったようで、
そういうことはずっとジュリーを見守ってきたファンには
よくわかっていたでしょうから、
安心してフランスで活躍してるジュリーを
応援してたんじゃないかと思うんですが、
ほんとのとこはどうだったんでしょうか。>姉様がた?

しかしね、考えてみると、
この日本語バージョンの「巴里にひとり」ってのは、
ジュリー自身のフランスデビューシングル、
「MON AMOUR JE VIENS DU BOUT DU MONDE」
のカバーってことですよね。
1975年当時、海外でその国の言葉でリリースした曲を
自分自身が日本語でカバーして日本でリリースするとか、
そんなことをやってた日本人って他にいるんでしょうか?
私が知らないだけでいらっしゃるのかもしれませんが、
そんなにたくさんはいないと思います。
しかも、その原曲はフランスでシングルチャート4位ですよ。
ジュリーは「出会い頭」とか「物珍しさで」とか、
冷めた感じで言ってますが、
これってやっぱりすごいことですよね。

そんな伝説の中の登場人物のような人が、
40年経った今でもまだ元気に歌ってて、
毎年必ず1枚のアルバムをリリースし、
全国40ヶ所ものコンサートツアーやってるとか、
しかもそれを今さらのファンになった私が見にいって、
きゃーきゃー言ってるなんて、
ものすごーく不思議な感じがします。
私のほうが伝説に参加させてもらっちゃってる、みたいな。
ジュリーの昔の曲の歌詞を深読みして、
あれこれ好き勝手なことを言っている私ですが、
「でもこれって40年も昔のことだからなあ」
と思うと同時に、
「あれ? でもこれ歌ってた人を私はこないだ見たよ」
と軽く混乱します。
ジュリーの伝説はリアルタイムで今も進行中なんだなあと、
そういうことでございますね。

今回は特に昭和の女性像もなにもあったもんじゃないですが、
なにぶんにもフランスですからね。(謎
この曲に関してはここで終わりたいと思います。


で、裏なんですけどね……

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ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。
カテゴリは【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。




「白い部屋」は、「追憶」の後日譚というか、
補足的な世界っつう感じですかね。
あいかわらず、
「彼女がいなくなっちまったよー」
と嘆いてますが、
「ニーナ!」と、「!」付きで激しく
「お前を二度とは悲しませない〜」と
叫んでいた(よね?)「追憶」とは違い、
彼女を失った哀しさを
なんというか、じっくりと切々と訴えてますから、
「追憶」がニーナと別れた直後ならば、
この「白い部屋」は、それよりは時間が経って、
改めて彼女のいない虚しさを感じている「僕」
ってとこですかね。
まだ彼女がいたころの日常を思い出しては
ああだったこうだったとぐずぐず言っとるようです。

しかしなー、この日常がなー。
コーヒーいれて「僕」をゆすり起こしたり、
レコードかけてふざけて踊ったり、
ゆり椅子で毛糸編んでたり……
どうも庶民くさいというか、
「追憶」のお耽美少女漫画の世界観とは遠い感じです。
もちろん違う歌ですから、
無理に同じ世界観じゃなくてもいいんですが、
私はこの「白い部屋」の「あなた」という女性像に
なんだかイラ〜っとするんですよ。

「追憶」のニーナは「僕」よりも早起きして
コーヒーいれたりなんかしないと思うんですよね。
いや…、一度ぐらいはやったことがあるかもしれない。
珍しく寝坊した「僕」をゆすり起こして、
っていうか、
仕事かなんかで疲れてもっと寝ていたい「僕」を
空気読まずに無理矢理起こして、
「今日はわたくしがコーヒーいれましたの」
「わたくしだって、やればできるんですのよ」
とか言っちゃってさ。
そのコーヒーは実はあんまりおいしくないんだけど、
ニーナがすんごくかわいくにこにこしてるから、
「僕」はなんにも言えずに
「ありがとう。うん…おいしいよ」
とか言っちゃって、
「でも、君はそんなことしなくていいよ」
「朝弱いんだから、寝てていいんだよ」
なんてなー。
だいたい、お耽美少女漫画の世界では、
コーヒーなんてもんは、
メイドがいれるもんじゃないですかっ! ドン!

でも、「白い部屋」の「あなた」は、
「いつもコーヒー冷めてしまうと僕をゆすり起こした人」
なんですよ。
「いつも」ですよ、「いつも」!
ってことは、「僕」は「いつも」女より寝坊してんですよ。
なんでせめて一緒に起きないんですか?
一緒にコーヒーいれろよ。
もしくは彼女がコーヒーいれてる間にトーストでも焼いとけよ。
もしかして、女は常に男よりも早く起きて、
身支度して化粧して、男に素顔を見せないもの、
とか思ってんじゃないでしょうね!(イラ〜)
…いや、まあ、そこまで意識して考えてはいなくて、
「早起きのできないこんなダメな僕でも愛してくれた優しい人」
ってな思い出なんだろうとは思うんですが、
女の優しさってのをそういうところに求めてるのが
イラ〜っとしますね。
しゃんとしろよ、しゃんと!
あ、でも。
これってもしかして、
私自身が朝が激弱で早起きが苦手だから、
こんなにイラ〜っとするんですかね?
朝に強い人だったら、
こんな程度のことで
「かけがえのないだいじなやさしさ」
とか言ってもらえるなら安いわ! ちょろいわ!
とか思えるんでしょうか。
うーむ、低血圧が憎い。
しかし、どっちにしろこんなことで
「かけがえのないだいじなやさしさ」
を感じちゃう男ってことで、
どーも安い気がします。(強引)

さらに、
「毛糸編んで唄っていた」
ってのがもうひとつのイラ〜っとポイントなんですが、
「追憶」の世界だったら、なにか手芸をするにしても、
毛糸じゃなくて、レース編みか刺繍じゃないですか?
レース編みや刺繍だと、
それで男性のものを作っているとは考えにくい。
せいぜいハンカチにイニシャルを刺繍するぐらいでしょうか。
あんまり実用的なものを作ってる感じがしません。
レースにしろ刺繍にしろ飾りですからね。
花瓶敷きとかクッションカバーとか、
別になくても困らないもの。
女の子が自分の楽しみのためにやってるイメージが強い。
ま、それはそれで、
女性らしさみたいなもののアイコンでもあるんですが、
「毛糸」にはまた違った意味合いがあるような気がします。
私の偏見というか思い込みかもしれませんが、
歌や物語の中で女が毛糸で編み物をしてると、
彼氏や夫のものを編んでるっていうふうに
描かれることが多くありませんか?
「♪着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編んでます」
ですよっ。(「北の宿」都はるみ)

うーわーーーいやーーー!

もしくは生まれてくる赤ちゃんのもの、とか。
はっ!
今気が付きましたが、
ここの部分はそういうこともほのめかしてんですかね?
考えすぎ?
まあ、どっちにしろ、編み物って行為は、
女の男に向けた優しさや暖かさの象徴、
みたいな扱われ方な気がします。
現実でも、女の子が編み物してると、
「お、彼氏にプレゼントか?」
みたいな声をかけられるとかさー。
今は価値観も多様化してきて、
そんなことを言う男も
少なくなっているのかもしれませんが、
(人前で編み物する女子自体がいないか?)
ひと昔前なら山ほどいました。
というか、女が編み物してると、
そういうふうに言うのが礼儀みたいに思ってる
アホな男どもがてんこ盛りでした。
この「白い部屋」の「毛糸編んで」からも、
それと同じ匂いがするんですよっ!
しかも、「あなた」は「唄っていた」んですよね。
つまり、そうやって編み物をすることが
その彼女自身の楽しみでもあったと、
それが「あの日の暖かさ」であったと、
「僕」は言いたいわけです。
うぎぎ。

「追憶」の秀逸なところは、
小雨降る夜に「僕」を待つニーナが
本を読んでいたってところです。
編み物でも刺繍でも、もちろん料理でもなく、読書!
さすがZUZUさんでございます。
乙女の求めているものをよくわかっていらっしゃる。
彼氏のために甲斐甲斐しくなにかするのではなく、
ダラっと本を読んでいても、
ただ待っていたというだけで愛される存在でありたい……
そんな乙女の願望ですよ。
乙女はジュリーと「日常生活」なんかしたくないんです。
素敵な舞台設定の中で、ただ愛されたい。
なのに、「白い部屋」の「僕」は、
「あなた」とのかつての日常生活を思い返し、
それがなくなってしまったことを嘆いている。
しかも、
コーヒーいれて「僕」をゆすり起こして、
一緒にレコード買いにいってふざけて踊って、
毛糸でなんか編んでくれた(らしい)……って、
おまえはニーナ自身ではなく、ニーナの行為を
「やさしさ」だの「暖かさ」だのって思ってたのかー!
あ、「白い部屋」はニーナじゃないですけど、
「読みかけの本を捨てて抱きあった」ニーナだったら、
「もしそういうことをやらなかったら私は愛されないの?」
って、悲しみ倍増なんじゃないですかね。

この「白い部屋」の作詞は山上路夫さんです。
「許されない愛」「死んでもいい」の作詞をされた方ですね。
彼女がいなくなったことを
かつての彼女のことを思い出しつつ嘆くという、
「追憶」と同じようなシチュエーションの歌詞でも、
微妙な男女の意識の差が出てしまった、
というところでしょうか。


夜ヒットDVDには、この「白い部屋」を歌うジュリーが
一番最初に入っています。

うーつーくーしーーーいーーーー!!!

パナマ帽にサスペンダー(それもキラキラ)
白いブラウスに白いパンツ、
加えてパールのネックレスという、
グレードアップした良ちゃん(悪魔のようなあいつ)です。
思えば、現実のジュリーは、
デビューした途端に絶大な人気を獲得し、成功した、
何者か=「ジュリー」になれた良ちゃんなんですよ。
一方、「悪魔のようなあいつ」の良ちゃんというキャラは、
「ジュリー」になれなかったジュリーです。
歌手になることを夢見て果たせず、
レーサーにもなれず町工場で働きながら三億円を強奪し、
そのお金でなんにでもなれると思っていたのに、
盗んだ三億円を自由に使えるようになる前に
死ぬかもしれない病気になってしまう……。
「悪魔のようなあいつ」の最終回で、
良ちゃんは野々村さんに向かって、
「この三億円がなかったら俺は何者でもなかったよ。
 ただの薄汚い、なにもできないそこいらの、
 チンケな野郎だったよ」
と言ってます。
良ちゃんは三億円があれば「何者か」を掴めると、
そう信じてたのに、それは叶わない夢でしかなく、
何者でもないまま死んでいく。
「悪魔のようなあいつ」は、
でも、そこがいい! ってなお話だったと思います。
ま、その良ちゃんはジュリーだったからこその、
でも、そこがいい!だったんですけどね。

「白い部屋」がリリースされたのは1975年3月。
DVDに収録されている夜ヒットの放送は5月。
「悪魔のようなあいつ」は同年の6月からの放送だから、
もう撮影は始まっていたでしょう。
このころのジュリーは、若くて綺麗でヒット曲にも恵まれて、
フランスデビューも成功させ、主演ドラマも決まり、
実情はガタガタしてたのかもしれないけど、
まだ井上バンドにサリーもいて、なんの心配もないころ?
そのまんまで、みんなに「綺麗だよ」と言われ、
言われるままに演じ、歌っているだけで、
「ジュリー」でいられた。
だからこそ、久世光彦塾長は、
その「ジュリー」を剥ぎ取って、
なにも持たない、何者にもなれない「良ちゃん」という役を
ジュリーにやらせることができたんだと思う。
あのころのジュリーは「ジュリー」を剥ぎ取っても、
「ジュリー」のままだったから。
それが、75年の暮れから76年にかけての、
新聞沙汰になってしまった事件を経て、
ジュリーは、ただそのまんまでいるだけじゃ、
「ジュリー」ではいられなくなると気付いてしまった。
そこから、ジュリーは意識して、
「ジュリー」をやっていこうとしたんだと思う。
それが「さよならをいう気もない」の金キャミ以降の
神パフォーマンスの数々に結実するわけだけど、
自分が何者か=「ジュリー」であろうとするためには、
何者でもない自分のことも意識しないといけない。
ジュリーが常人と違ったところは、
良ちゃんが捨て去りたかった、
……というか、
普通の人はみんな捨て去りたいと思うだろう、
「何者でもない自分」を「ジュリー」の内側に、
ずっと大事に保ち続けていたところだと思う。
50年近くもの長い間歌い続けて、
日本の歌謡界の歴史を塗り替えてきた「ジュリー」。
でも、その「ジュリー」の中には、
66歳になった今でも、
「何者でもない」ジュリー=沢田研二がちゃんといる。
もちろん、ただのファンである私が目にするのは、
ステージに立って歌うキラキラの「ジュリー」なんだけど、
ときおり、曲と曲の間やMCでおしゃべりしている時なんかには、
ひょっと「何者でもない」ジュリーが垣間見えて、
「ああ、ジュリーって普通の人なんだなあ」と思え、
あんなスーパースターな経歴を持つ人が、
その内側に普通の感覚を持っているというのがすごいと思うし、
そういう部分をファンに見せてくれるのが嬉しかったりもする。
そんなわけで私は、
何者でもない普通のおっさんをその中に抱え込んでいる
「ジュリー」が大好きなのです。

……と、
最後は、昭和女性幻想にも「白い部屋」にも全然関係ない、
単なるジュリー話になってしまいました。
しかも気持ち悪い愛の告白付き。
すみませんすみません。
無理矢理こじつけるとしたら、
ジュリー自身が意識するしないに関わらず、
「ジュリー」というイメージをまわりから期待され、
背負わされていたことと、
女が、主に男側からの「女はこうあるべき」という、
幻想の女性像を背負わされていた構図が似ている、
ということでしょうか。
そのことについては、このへんで長々と語っていますが、
ジュリーは男なので、
「ジュリー」という虚像を受け入れるかどうかを
自分で選び取ることができました。
しかし、普通の女がそれをやろうとすると、
ものすごい労力を必要とする。
世間一般が無邪気に押し付けてくる女性像を、
完全に剥がし取るのはほぼ不可能だし、
そういう世間から与えられた「女性幻想」を背負った上で、
自分の望む「何者か」にならないといけない。
家事も育児も完璧にやった上で、
仕事のキャリアを積まないと認めてもらえないとかですね。
ああ、めんどくさい。
そもそも「何者か」にならないといけないという考え自体が、
女は望まない女性像を押し付けられ、
男は男で、自分でその「何者か」像を見付けて、
それに向かって努力することを求められることになり、
どっちも息苦しくなってるってことじゃないですかね。

「悪魔のようなあいつ」の良ちゃんが、
ある種の女性たち(主に腐女子?)に人気だったのは、
良ちゃんが、何者でもないままで、
野々村さんに受け入れられ愛されていたからじゃないですか。
何者でなくてもいい。むしろ何者にもならないでほしい。
一緒にポール・シー・ハーバーに行くだけでいい…。
ニーナもそうですよね。
「許して尽くして側に」いるだけでいい。
ま、「尽くして」っていう、
その中身が気になるところではありますが、
「白い部屋」の「あなた」のように、
コーヒーいれたり「僕」を起こしたり毛糸編んだりという、
いわゆる「女らしい」行為をすることではないと思います。
「追憶」がオリコン1位だったのに対して、
「白い部屋」が8位止まりだったのは、
このへんの違いもあるんじゃないでしょうか。
乙女たちはニーナのような愛され方のほうを
求めていたってことですよね。

と、なんとか最後は「白い部屋」に戻ってこれたか?
いや、「追憶」リスペクトになっちゃったか。
どーも私は、この曲は歌詞をよくよく読んでると
もや〜っとイラ〜っとしてくるので、ユルシテください。





で、裏解釈ですー。


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