ブログを更新しようにも、
このところは「稀人舎」としてはあんまり動きがなかったり、
ジュリー萌えも書きたいことはあるけど
まとまらなかったりで、なかなか……
というわけで、
ずいぶん前に書いて
他のサイトに載せていた文章を再掲してお茶を濁す。
てか、「稀人舎」の名前の由来とか、
「稀人舎」を立ち上げた頃のこととか
いろんなことをぼんやり考えてたら、
これのことを思い出してさ。

民俗学とか昔話とかに興味のある方はどーぞ。
長文です。




 ずいぶんと以前からぼんやり考えていたことを書く。
 
 私は趣味で日本民俗学関係の本をあれこれ読んだりしているのだけれど、日本の民話や昔話なんかを読んでいると、あるパターンの話がとても多いことに気付く。
 それは「かつてあった。だが、今はもうない」というパターンの話だ。
 
 「うぐいすの里」とか「椀貸し淵」なんかがその代表かと思うんだけど、たいがい山の中に立派な館があって、そこには美麗な調度なんかが揃ってるってのが、まず話の発端というか設定だ。
 で、「うぐいすの里」パターンでは、その館に迷い込んだ人間が、その館のきれえな姫様に「その座敷を見るな」とか「その箪笥をあけるな」とかって約束をさせられて、留守番をさせられる。
 禁止ってのは破られるためにあるもんで、話の成り行き上、やっぱり主人公は、ダメだと言われている座敷を見たり、箪笥を開けちゃったりしちゃうわけだ。
 当然、それは姫様にばれて、山の館は消え失せる。
 「椀貸し淵」パターンでは、村人がある場所でお願いすると、その山の中の館から必要なだけの食器やなんかが借りられる。ちゃんと約束通り、借りたものを返していれば、またいつでも必要なときに必要なものが借りられたっていうのに、やっぱり約束は破られて、ある時、借りたものを返さない人が登場してしまう。で、それ以来、お願いしても山の館からはウンともスンとも言ってこなくなる……と。
 
 どちらにも共通しているのは、これらの話は「かつてあった。だが、今はもうない」ということを語っている、ということだ。
 「よい爺さん(婆さん)・悪い爺さん(婆さん)」パターンの話も、このバリエーションといえる。山の姫様との約束を守ったよい爺さんは、どんな食べ物でも出てくるヘラとかお櫃とかを貰って帰ってくる。これは、「うぐいすの里」パターンで約束を守った場合はどうなるのか、という疑問に一旦答を出してるんだけど、やっぱり悪い爺さんのせいで、「今はもうない」状態になっている、ということが最終的には語られる。
 あ、「浦島太郎」も、ちょっと話がフクザツになってるけど、このバリエーションだし、「猿婿入り」も、パターンとしては同じに分類してもいいかもしれない。約束を破って猿を殺して嫁にいかなかったから、今はもう猿が嫁をもらいになんて来ない。
 
 こういった昔話について、「異界との交流」の観点からいろいろと論じている先生はたくさんいるのだけど、このすべてに共通する「今はもうない」ということを語っているという点からの研究って、見たことがないような気がする。
 
 昔は確かにあったんだけど、今はもうない。どうしてなくなったのか、それを教えるための話ばかりだ。どうしてこんなにたくさんのバリエーションを作ってまで、今はもうないものの、なくなった理由を語らなければならなかったのか。
 
 以下は、完全に私の妄想。
 
 かつて、里で田畑を耕して暮らしていた人間とは別に、山の中、もしくは海の中(離れ小島とか?)には、なんだか人間とはちょいと文化レベルとか精神レベルとかが違う存在があった。それは、よく言われるような、かつての先住民族、山の民と言われる人々だったのかもしれないけれど、なんというか、もっと超自然的な存在だったのかもしれない。
 それは、人間が「いる」と信じていれば、存在することができた、そんなモノたちだ。
 「山の中には自分たちとは違う存在のモノたちがいて、何か困ったことがあると助けてくれたり、交流することができる」
 と、そんな風に素朴に信じているうちは、山の中で迷っていれば、立派な屋敷に泊めてもらえて便利な道具をもらえたり、お願いすれば椀を貸してもらえた。
 普段は里で、自分たちだけの力でどうにか暮らしているけれど、どうにもこうにも行き詰まったときは、そんな超存在がいるのだから大丈夫。そう信じることで人間達は頑張ってきたんだ、きっと。
 
 そうこうしてるうちに人間が増えて、里の村も大きくなって、田畑も豊かだったりそうじゃなかったりと、格差が出てくると、次第に力を付けて、まわりを従えたくなる人間が出てくるのは歴史のお約束。
 ヒミコだか神武天皇だかわからないけど、他の人々を従えて王になろうという人間が登場する。それは大陸から渡ってきた者達なのかもしれないし、日本にもともといた人たちの中から自然発生的に登場した者なのかもしれない。大陸系から来たって方が、この後の説明としてはしっくりくるけどね。
 その王様は、まわりのマチやムラを友好的な交渉か、武力によってか、だんだんと征服していくわけだけど、どーもおかしい……。こいつら、俺に従うとか言ってるくせに、なんだか究極は違うモノを信じてるフシがある……とか不審に思う。

 そりゃそうだ。いくら力に物言わせて言うこと聞かせる王様に従っていたとしても、それは所詮人間同士のこと。里の人々が信じてる山の館は超自然的存在なんだから、王様に従うのとは全然別の次元だ。人々は、王様に無理難題を言われて土地を奪われたりして言うこと聞かなくちゃならなくなって、表面的には従っていても、心の奥底、無意識の部分では、どうにもこうにもならなくなったら、山の館にお願いすれば助けてくれる~とか思っている。思ってるっていうか、感じてる。
 一種の信仰のようなものなんだろうけど、でも、神様を信仰するというのより、もっと根源的な部分で信じちゃってるものだから、いくら王様が「こっちの神様を祀って信じるように」とか言ったって、その時は「はいはい」とその神様にお祈りするだけの話だ。
 その辺の感覚がわからなかったとすれば、やっぱりその王様は大陸方面から渡ってきた人たちだったのかもしれない。
 
 そんな状態では、どーもおもしろくないと考えた王様は、いろいろ調べて、人々の間に山の館という存在が信じられていることをつきとめる。
 このやっかいな存在を消すためにはどうしたらいいか。力で攻めてもどうにもならない。それは信じている者の前にしか姿を現さないのだから、そもそも王様の前には現れないし、王様にとっては存在しない。存在しないものとは交渉もできない。
 それならば、信じている人間がいなくなればいいのだ。
 王様は賢かった。
 「山の館はもうなくなってしまいましたよ」キャンペーンの開始だ。
 
 それまでの人々は素朴だから、「座敷を見るな」と言われれば「わかりました」と真っ正直に約束を守っていた。いや、もしかしたら、そんな禁止事項なんかなかったのかもしれない。その禁止事項も王様が作り上げ、人々の間に「こういう約束があったのに、破った人間がいたから、もう山の館はなくなってしまった」という話を流布させたのかも。
 また、それまでは律儀に借りたものはきちんと返していた村人に「その椀を返さずに取っておいたら宝物になるのではないかな?」なんて吹き込んだかもしれない。エデンの園のヘビか……。言われるままに約束を守っていた人々に好奇心と欲を植え付けたんだね。
 で、その結果、人々の心には「約束を破ってしまった」という罪悪感が生まれて、「もう自分たちを助けてくれる山の館は姿を現すことはないんだ」と思い込んでしまう。ううーん、せつない。
 それはもう全国展開の一大キャンペーンだったから、それで「かつてあった。だが、今はもうない」パターンの話が、各地でいろんなバリエーションで語られ、残ることになった。
 地方の古い民話なんかで、まれに「村人が山で立派な屋敷に迷い込み、お土産をもらって帰ってきた」というだけの話が見られるが、それは、王様のキャンペーン以前の話が残っている例じゃないかと思う。
 
 なにはともあれ、王様の思惑は大成功。
 だいたい、山の館は、人々の信じる力でもって存在していたようなものだったのだから、「今はもうない」という話が信じられてしまえば、もう、それは存在しない。山の館の主は、もしかしたら、現実にいた山の民だったのかもしれないけれど、彼らが不思議な力を持つ存在だということが忘れられてしまえば、それはもう自分たちと同じ人間にすぎない。ただ、住んでいる場所や暮らし方が少し違う他民族というだけだ。
 王様の賢かったところは、頭ごなしに「そんなの全然ないもんね」とは言わず、「かつてはあった」と、一旦人々の信じたい気持をすくい上げたところだ。「そうそう、あったよね」と、話を聞く人は思う。でも、「こういう理由で、今はもうないんだよ」と言われてしまえば、「ああ、そうなんだ……そういえば、最近は見たって話も聞かないね」なんつって、「ない」ということを信じてしまう。
 その話を聞いて「そんな便利な存在があるといいなあ」なんて思うくらいじゃダメなんである。「あるといいなあ」なんていう願望じゃなくて、そんな言葉で考えるより先に遺伝子レベルで「ある」と刷り込まれている状態じゃないと、山の館は存在できない。
 だいたい「山の館」「椀貸し淵」とかいう言葉で規定されてしまっては、もうそれはおとぎ話の中のモノにすぎない。
 
 ときどき、この世の規定や言葉に縛られることのない小さな子供や特別な人間が、山の中や人里離れた場所で、そんな存在に出会うことがあっても、彼等はそれを伝える言葉を持たない。人間はもう、言葉で確定されたモノ以外のモノを見ることはできなくなってしまったのだから。

 
 山道を息を切らせて登る。聞こえるのは自分の息づかいと葉擦れの音、どこか遠くを流れる沢の水音だけだ。耳がじーんと痺れたようになって、聞こえているのは本当の音なのか幻聴なのかわからなくなる。山の中で、自分の立つ位置もあやふやだ。
 そんな時、汗を振り払って上げた目に映る、木々の間の丹塗りの柱。
 しかし、それは「丹塗りの柱」という言葉で捉えた途端、消え失せる。
 あとには、やさしい、なつかしい、せつない気配が残るのみである。
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