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「ジュリーのシングル曲で昭和女性史」を考えてみよう、
という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。
カテゴリは【ジュリーシングル曲で昭和女性史】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。




前回の「序章1」の続きです。

えー、ジュリーの曲は、
20代前半から30代の超絶美貌のジュリーが
歌ってるってことで、
その歌詞の中の「君」「あなた」「おまえ」は
あのジュリーのお相手ということになり、
特に乙女萌えのファンにとっては「私」でもあるし、
あまり一般化することはできないかもしれませんが、
ジュリーの曲といえども、そこはいわゆる流行歌。
多くの人に聴いてもらって共感されてなんぼ、
という面ももちろんあったわけですから、
その歌詞の中に登場する女たちは、
当時の世間様が「こういう女がいいな」、
もしくは「こういう女でありたい」と考えた
女性像であるのは当然のことです。
そして、その「世間様」というのは、
男性側の価値観であることが多いわけですが、
それは時代を遡るほど強くなってます。

ソロデビュー曲の「君をのせて」
ちょっと特殊だと思われるので、
それについては個別の話で語ろうと思いますが、
「許されない愛」以降、阿久悠氏作詞時代前までは、
自分から身を引く女、
もしくは、止むに止まれぬ事情(死とか病気とか?)で
じゅりの前から姿を消す女ってのが定番です。
初期の作詞では安井かずみ(ZUZU)さんが代表的ですが、
ZUZUさんはご自身がジュリーの
大ファンだったということもあり、
(「片思いしていた」と加瀬さんは言っていましたね)
作中の「僕」=ジュリーはとにかく真摯に激しく
「あなた」を愛し続けます。
でも、その恋は実らない。
真面目に愛を語るジュリーに
「あなた」は応えることができない。
そこがいい、という世界観なわけですね。
だって、「僕」の恋が実ってしまったら、
歌詞の外側にいてジュリーの歌を聞いている、
ZUZUさんを含めたファンたちは
置き去りにされてしまいますからね。
「あなた」に自分を投影させている乙女萌えのファンは、
「こんなにジュリーに愛されても
 私はそれに応えることができないのよよよ……」

と身悶え、
または、「あなた」ではないファンたちは、
「ジュリーにこんなに愛されたら、
 私だったら離れたりしないのに」

と、またしても身悶える、という寸法です。
こういう世界観である以上、
「僕」は絶対に悪く描かれることはありません。
悪いのは女のほう、というか、
女を取り巻く事情のせい、という状況。
親が決めた結婚相手がいるとかね。
そして、そんな状況に女は逆らわない。逆らえない。
逆らえないけど別れることはできないってときは、
引き裂かれて心の病になっちゃう。
自分でどうこうしようという意志はありません。
そういう女が求められていた時代だったんですよね。

それがだんだんと自分の意志を持って行動するようになり、
次の阿久悠作詞時代では、
男に愛想を尽かした女が自分の意志で、男が寝たふりしてる間に
出ていったりはするようになるんですが、
それに対する男のほうは、
どんどん煮え切らない感じになっていきます。
かつて「あなただけでいい」だの「死んでもいい」だのと
ぐいぐい行ってたじゅりくんも
少し大人になって、いろいろ考えるようになったんでしょうか。
ろくでなしなのに憎んだりせず、
最後は私の胸で眠るつもりでいるのでしょうね、
とか言ってくれる優しい彼女がいるってのに、
花園で眠れないとか、いけない女と呼ばせたくないとか
優しい女とわかったらおさらばするとか……、
いったいなにをどうしたいんだよって感じで、
ぐだぐだです。
阿久悠氏は、ジュリーが歌うなら
どんなかっこ悪い男でもかっこよくなるから、
安心してかっこ悪い男の歌詞を書けた、
とか言っていたようですが、
「せめて少しはかっこつけさせてくれ」
と歌詞にもあるように、
必死でかっこつけてるかっこ悪さで、
女の側、それも今の時代から見ると、
どうにも始末が悪いかっこつけです。
「ほっといてくれ」と言って背中を向けておいて、
その背中にはデカデカと、
「かまってかまってかまってかまって」
って書いてあるみたいな。
で、そんなしょうもない男のことも
優しく見守ってくれる、
もしくは黙って送り出してくれるのがいい女っていう、
完全に男にとって都合のいい女が求められていた
そういう時代だったんですね。
まあ、阿久悠先生もZUZUさんと同様に、
ジュリーのことが大好きだったらしいですから、
自分を含めた普通の男がやったらド顰蹙もののことも、
ジュリーのような美しい男がやれば、
こんなこともあんなことも
女は許してくれるんじゃないだろうか。
そうであってほしい。
みたいな、そんな男の願望をてんこ盛りにした
作品群だったんだろうなあと思います。
本当にありがとうございました。(毒)
しかし、ジュリーもそういう世界観には違和感があったようで、
その違和感に強烈なビジュアルで太刀打ちしようとし、
それがあの一連の神パフォーマンスとなったわけなので、
なにが幸いするかわかりません。
それはともかく、
70年代後半、昔に比べれば女も少しは強くなり、
自分の意志を持って行動する場面も増えましたが、
男女の関係で言えば、まだまだ女は男に愛されてなんぼ、
みたいに思われていたような気がします。
どんなしょうもないダメ男でも、
「愛してる」と言ってくれるならば、
許して待っているのがいい女、みたいな。
そういう女を世間様(男)は求めていて、
女もまだそれを受け入れていた時代だったんですかね。

それが、80年代に入ると、
働く女も増えて、経済的にも豊かになり、
いろんな面で男と対等と言われるようになっていきます。
「言われていた」けれども、
それが本当の対等ではなかったことは、
30年後のこの現状を見てのとおりで、非常に残念でございますが、
80年代初頭は女性が元気だと妙に持ち上げられた時代でした。
「女の時代」なんてキャッチコピーもありましたね。
ジュリーの曲の歌詞も、阿久悠氏時代から、
糸井重里さんを経て、三浦徳子さんらが書くようになり、
元からずれてる男と女の謎を楽しんだり、
オレのすべてを見せてやるからオマエのすべてを見たいとか、
気ままな夢を広げる自由をあなたの腕から奪っちゃいけない、
とか、男のほうも女に要求を出したり、
女の意志や要求を認めたりするようになります。
阿久悠氏の歌詞では、
男は勝手に自分の悩みや要求を言うだけで、
女のほうに言い分があるなんてことは、
ほぼ考えちゃいない感じだったのが、
いろいろと考え始めた女の言い分も
聞かなきゃいけなくなったってことでしょうか。
その結果、男の側から見た恋は
だんだんと思い通りにいかなくなり、
ユウウツだったりBLUE BOYだったりどん底だったりして、
じゅりくんはやさぐれっぱなしになっていきます。
しかし、まだまだ時代は80年代前半、
女が強くなったとか元気だとは言っても、
20代前半の若いころという期間限定のこと。
私もちょうどその時代に学生から社会人の時期で、
まさに好き勝手なことをやっていましたが、
それは、結婚するまでの猶予期間だったように思います。
結婚して家庭に入ったら、
(この「家庭に入る」という言い方がまだあった時代ですからね。
 しかも、結婚は絶対にするものという固定観念もあったんですよ)

もう好き勝手にできなくなるから、
今のうちに遊んでおけ、みたいな。
そこで、ひと晩限りのチェックインするセクシーイブや、
45分で背中まで許しちゃう、名前も覚えてない彼女みたいな、
軽~くセックスライフを楽しめる(っぽい)女たちが登場し、
それが「いい女」と言われたりします。
女のほうもそうしたいからやってたことではありますが、
男にとっても、それは好都合だったんじゃないすかね。
後腐れなく遊べる女が大量に現れたわけですし。
しかし、本当に後腐れがなかったなんてことはなく、
女は、主体的に恋愛を楽しむ自由を手に入れた一方で、
やっぱりひとりの人に愛されたいという欲求も、
当然ありました。
だからジュリーの歌も、女に対して、
浮気な恋を楽しもうよと言ってみたと思うと、
麗人だのマドンナだのと持ち上げたりと、
忙しいことになっているんじゃないでしょうか。
時代はバブル直前。
いろんな期待に満ちた雰囲気が充満していて、
男女の関係性も女の立場も変化していくんじゃないかっていう
期待感があったような気がします。
でも、一方ではまだまだ古い考え方も残っていて、
(結婚しなきゃとか、家庭に入るとかですね)
私たち女はそれにかなり振りまわされたような記憶がありますが、
ジュリーの「A面コレクション」の後期のラインナップが、
イメージが統一されず、じゅりくんの物語に組み込もうとすると
ぐだぐだになってしまうのも、そのせいなのかもしれません。

「A面コレクション」に収録されている最後の曲、
「灰とダイヤモンド」は、ジュリー作詞の謎歌詞で、
これはジュリー自身のことを歌っているんじゃないかと、
私は解釈しているんですが、
「お前」「君」と、一応「女」と思われる相手が出てきます。
そして、その「お前のすべて」を「許してあげる」のが
ジュリー=「男」のほうというのは、なんとも象徴的です。
70年代においては、許すのは女のほうだったのに、
15年後のここにきて、男が女を許すと言ってるんですよ。
これを結末として、じゅりくんの物語も一旦ひと区切りと
考えてもいいのかなと思うので、
この「シングル曲で昭和女性史」で取り上げるのは、
ひとまず「灰とダイヤモンド」までとしたいと思います。

もちろんジュリーはこの後も、年に1枚のアルバムを発表し、
年に1〜3枚のシングル曲も淡々と出し続けます。
しかし、当時テレビでしかジュリーを見ていなかった私が、
リアルタイムで知っているのは、
ぎりぎり「アリフ・ライラ・ウィ・ライラ」「女神」ぐらいまで。
麗人、マドンナと持ち上げた女たちは、
シェヘラザードになり、ついに女神様になってしまいます。
ここまでくるとイメージが壮大すぎて、
歌詞の中の「女」をその時代の女に重ねて考えるとか、
私にはもう無理。
ま、リアルタイムで聴いたと言っても、
聴いたことがあるという程度なので、
あんまり語れることがないってことでもあります。
「アリフ」や「女神」のお耽美なイメージは大好きですけどね。
時代はまさにバブルまっただ中。
世の中がキラキラわーわーしていた時に、
熟し切って腐る寸前みたいな香りを漂わせていたジュリーは、
やはり時代を先取りしすぎだったんじゃないかと思います。



と、ここまでがジュリーの昭和シングル曲の概観ですが、
これはいわば表の解釈。(え?)
ジュリーの歌には裏読みがあります。
ま、腐女子である私が勝手に
腐女子的に解釈してぐへへと思ってるってだけですけどね。
ジュリーの歌詞の中に出てくる「あなた」「おまえ」「君」は、
普通に素直に読めば、歌っているジュリーの相手=「女」ですが、
そこここに散りばめられたキーワードや、
また、歌っているジュリーのパフォーマンスによって、
ジュリー自身が「おまえ」だったり「あなた」だったりに
思えてくる曲が結構あります。
例えば「危険なふたり」の「美しすぎる」「きれいな顔」、
これを、24歳の超絶美貌のジュリーが歌ってるんですよ。
「美しすぎるのはジュリーじゃん!」
て、なりませんか?
なるんですよ。
その「あなた」がジュリー自身なら、
「僕」は誰?ってなるわけで、
そこから腐女子的妄想が暴走します。
そんな妄想もときどきは追加していく所存であります。

では、次回からは個別の曲について、
ウザく長ったらしくめんどくさく語り倒そうと思います。
よろしくお願いいたします。

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