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ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


ご無沙汰してしまった
【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】の続きです。
なにそれ?という方は、
最初から読んでいただけたら嬉しいです。




さて、久しぶりにして、
私の中ではジュリーソロ第二期の始まりと
勝手に位置付けている「時の過ぎゆくままに」です。
ここから阿久悠氏の快進撃が始まるわけです。
阿久悠氏が書く歌詞に登場する女性像に関しては
いろいろと言いたいことがあるんですが、
しかし、この曲に関しては、
ちょーっと勝手が違うというか……。

あのですね。
この【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】の記事で、
一部の(?)ジュリーファンの方々にご好評いただいている
《裏解釈》なんですけどね。
そこでは、それぞれの曲について、
本来は女性を想定しているであろう、
「あなた」「君」「おまえ」をジュリー、
もしくはジュリー周辺の男性の誰かということにして、
主に「腐」な妄想を暴走させているわけですが、
この曲に関してはもう、裏も表もないといいますか、
公式で《裏解釈》をやらかしてくれてるといいますか……。

なんせ、これはあのドラマ「悪魔のようなあいつ」の
劇中歌・主題歌なわけですよ。
このドラマのプロデューサーの久世光彦塾長は、
「あのドラマで僕が表現したかったのはホモです」
てなことをはっきりくっきりと言ってますしね。
だいたい、そんなこと言われなくとも、
ふつーに見て、これは「ホモ」なドラマですし、
これを見て腐女子開眼した女子たちも大勢いて、
なにより、栗本薫御大がこのドラマを元にして、
「真夜中の天使」を書き、JUNEが創刊され、
現代日本の腐女子文化の基礎がそこで形成された…
という、偉大なドラマなんですよっ。
久世塾長と栗本御大には、
本当にありがとうございます、
としか言いようがありません。

ありがとうございます!(平伏)

このドラマの原作者にして、
劇中歌「時の過ぎゆくままに」の作詞家である
阿久悠氏は、久世塾長の熱い思いに応えて、
っていうか、「キターッ」とノリノリに乗っかって、
ふたりでジュリーを主人公にしたドラマの原案を
三日間箱根の旅館で話し合ったらしいですが、

あ や し す ぎ る(笑)

「(箱根湯本の旅館の離れ座敷)で三日間、
 ほとんど炬燵に入ったままで、
 沢田研二をどう魅力的に扱うかだけを話し合った。」
(「夢を食った男たち」より)
って…………うう〜〜〜ん…
当時、阿久悠先生37歳、久世光彦氏39歳。
アラフォーのおっさんふたりが旅館に自らカンヅメになって、
三日間ジュリーのことばっか話してたってんですよ。
「どう魅力的に扱うか」って、「扱うか」ですよっ!
うわーー
「ぼくらは、まるで着せ換え人形遊びでもするように、
 沢田研二にいろんな個性や役柄を当てはめながら、
 カンカンガクガクやっていたが…」
って……、そこんとこ(人形遊びのとこ)詳しく!
「ぼくら二人のほかに双方のスタッフが何人かいた」って、
わざわざ書いてるとこもまた怪しい。
〝二人っきりだったらヤバいな、これ〟って、
自覚してたってことじゃないですかね。
私たち腐女子仲間が腐エロトークで盛り上がっちゃって、
止まらなくなるような?(違うか)
違うな……
腐女子がお気に入りのキャラや男子をネタに
腐トークするときは、そこに「自分」は介在させません。
どんなに過激なエロい妄想を炸裂させたとしても、
そこに自分は関わらないから、
それはどこまで行っても、やっぱり「妄想」。
そして、自分が入らないせいか、
どこかに笑いが含まれている気がします。
笑える妄想っていうかね。
自分は神の視点で男子同士のカップルを上空から見て、
「微笑ましいのう」って笑ってるような感じですかね。
上から目線っちゃ上からなんですが、
そこがまた腐女子妄想の楽しいところでもあるんですよ。
しかし、男の人がジュリーのことを語るときって、
なんか、そうじゃないような気がするんですよね。
妄想の中に「自分」も入っちゃってる感じ。
あー、腐女子はキャラ同士の関係性に萌えるけど、
男のオタクは対自分で萌えるっていう違いがあると、
【稀人舎通信6号】の座談会でも語ったことがあったけど、
それかもしれない。
なんかこう〜
彼らがジュリーのことを考えるときって、
対自分の要素をどこかに置いてるニオイがするんですよ。
なので、そこに笑いはないんです。
自分のことを笑うって、なかなかできないですし、
特に男の人はそういうの苦手じゃないですか?(偏見)
真面目にジュリーと自分の関係を妄想して語ってて、
ちょっと痛い…みたいな。
久世さんは腐女子要素の強い方だと思うので、
「わかるわー」って部分も多いんですが、
阿久悠氏はなー、なんかなー……、
ちょっとその……、対自分妄想がマジな感じがして、
痛いよりも怖いというか、そんな気がするんですよ。
あ、個人の感想です。

阿久悠先生は、
「(ジュリーに)少女たちは花を見、
 はるか年長のプロの男たちは毒を感じて評価していた」
とも書いてます(「夢を食った男たち」より)が、
ジュリーに「花」を見てたのは、
彼らのほうじゃないですかね。
少女たちってのは結構現実的なもんですし、
自分らにはどうしたって手が届かないってわかってもいるから、
腐女子じゃない乙女萌えのファンたちも、
ジュリーのことは憧れとして見てるだけで、
対自分妄想をするにしてもそれはあくまでも妄想と割り切って、
現実はそれなりにきちんと生きてたんじゃないでしょうか。
仮に「花」を見てたとしても、
その「花」は絵に描いた餅ならぬ妄想の花だったんですよ。
しかし、「プロの男たち」ってのは、
なんとかすればジュリーに手が届くところにいる
人たちなわけじゃないですか。
んで、手が届いちゃったらどうしようとか、
考えちゃいますよね、たぶん、きっと、絶対!
彼らにとってのジュリーは、
触ろうと思えば触れる、匂いも嗅げる、
もしかしたら手折ることもできちゃう(きゃー)
現実味のある「花」だったわけですよ。
んでもって、
「毒」ってのは、自分に対して害をなすものだから、
「毒」と認定するわけです。
だからこそ、乙女たちのようなぽわわ〜んという
夢の花を見ている気持ちじゃなくて、
「これ触っていいの? ヤバくね?
 匂いクラクラ来ねえ? 毒あるんじゃね?」
っていう警戒心ピコーンピコーンて気持ちで、
「毒を感じて」いたんですよ。絶対。
そんなふうに、
ジュリーに関わろうとする「プロの男たち」は、
毒を食らわば皿までなんつう、
一種悲壮な覚悟でもってジュリーに近づき、
「覚悟したんだから!」つって、
言わなくてもいいようなことまで、
例えば、阿久悠氏の
「(ジュリーに対しては)恋心のようなところさえあって」
とか、こっちがむず痒くなるようなことを
後に残る文字にして残してくれてたりするんですよ。
読んでるこっちが恥ずかしくなります。
(ありがとうございます!)

…という、おっさんたちの本気具合が微笑ましくもあり、
若干キモくもあり……(すまぬ)、
それらの、おっさんたちの捻れまくった対自分妄想の、
見ちゃいかんものを見せられてる感が、
ドラマ「悪魔のようなあいつ」には滲み出ちゃってて、
それがあの怪しい雰囲気になってんじゃないですかね。

で、「時の過ぎゆくままに」は、
この怪しいドラマの劇中歌ですし、
歌っているのはジュリー=可門良ですからね、
「あなた」ってのは、やっぱり野々村さんか?
ってことになるわけです。
久世さんにしろ阿久悠氏にしろ、
野々村さんには少なからず自分を投影させてたでしょうし。
歌詞とドラマの内容とのリンクで言えば、
野々村さんは思い出の曲を片手で弾いてましたよね。
良ちゃんに
「その歌嫌いなんだ」「今さらなんだってんだよ」
って、冷たく言われて呆然としてましたが(笑)。
しかし、
「生きてることさえ いやだと泣いた」とか、
「昔を思って 泣いた」とかって言われると、
なんか野々村さんのキャラじゃないなあとも思ったり。
良ちゃんに冷たくされたら泣くかもしれないですけどね。
生きてるのがいやだとは言わないだろうなあ。テカテカしてるし。
そんなら、ここは素直に
野々村さんの元妻にしてコールガールにして、
良ちゃんに惚れちゃう女・恵い子さんか? とも思いますが、
(恵い子さんも劇中でピアノ弾くシーンありましたよね)
どんなに恵い子さんに惚れられても、
良ちゃんは絶対に恵い子さんとは堕ちてはいかないだろうと
思われるので、それも違うなあとか。
ふみよさんも静枝さんも、それは同じ。
そもそも良ちゃんは女とは絶対に堕ちないですよね。
なぜかと言えば、このドラマを作ったのは男たちだから!
自分=男を受け入れてほしい「良」という存在を
ジュリーに演じさせるというドラマなんですよ、これは。
(たぶん)
それに、「堕ちてゆく」といえば、
「この歌は心中の歌なんです」とも、
阿久悠氏はどこかで言っていて、
となると、ドラマの最終回で、
「心中だなあ……、りょおおお」
とか言いながら死んでいくのは野々村さんなわけだから、
やっぱ「あなた」は野々村さんか?

とかとか、どうしてもこれは、ドラマの内容に則して、
歌詞も解釈しようとしてしまいがちですが、
今回この記事を書くにあたって改めて歌詞を読んでみて、
これはむしろ逆なのかもしれないと思いました。
まず、この歌が先にあって、
ドラマの登場人物たちそれぞれが、
この歌のシチュエーションに自分たちの身をなぞらえて、
良ちゃんに恋い焦がれたり、行動したりしてる……。
そんな関係なのかもと。

「沢田研二のけだるさを秘めた退廃美に魅せられていた」
久世さんと阿久悠氏が
「色っぽい歌を作りたいね」と言って作ったのがこれ。
「ようやく日本の社会に、
 堕落の美が似合うようになってきた贅沢の気分」
(「歌謡曲の時代」より)
の歌なんだそうです。
「生きていくのもいやだと泣」く「あなた」と、
「時の過ぎゆくままに この身をまかせ」
「堕ちてゆくのも しあわせだよと」
「つめたい からだ合わせる」という、
どうにもこうにも行き詰まったふたりの描写が続き、
いや、それでも愛し合うふたりで一緒に堕ちてゆけるのなら
それも幸せのひとつの形か?と思わせといて、
最後には
「もしも二人が 愛せるならば
 窓の景色も かわってゆくだろう」
って、「もしも」ですよっ。「愛せるならば」ですよっ!
仮定法ですよ!
ってことは、今はこのふたりの間に愛はないんですよ。
だからこそ、「あなた」は「昔を思って泣いた」んですよね。
まあ、なんということでしょう!
もう愛し合ってはいないのに、
どうしようもなく
「時の過ぎゆくままに この身をまかせ」「堕ちてゆく」
そしてそんな自分らを嘲笑するかのように、
それもひとつの「しあわせだよと」いろんなことを諦めつつ、
なにも解決しようとはせずに、
もう愛してはいないから「つめたいからだ」を
「合わせる」んですよね。
まさに「堕落の美」ですわね。
阿久悠先生、さすがでございます。

この曲は1975年当時、リアルタイムでも聴いてましたが、
私13歳。
お子様にこの歌詞は難しすぎます。
特にジュリーのファンというわけではなかったお子様の私は、
スローなバラードだし暗いしつまんない歌だなあとか
思っていたような気がします。申し訳ない。
お子様だったから、ユルシテ。
そして、たぶんこの子供には理解不能な
大人な雰囲気の歌のせいで、
私の中でのジュリーは「大人の歌手」の
カテゴリに分類されてしまい、
これ以降のジュリーはどんな派手なことをやっても、
ずっと「おっさん」枠でした。
すまんすまん。
今見ると「勝手にしやがれ」
「カサブランカ・ダンディ」も、
「TOKIO」でさえも、
超絶かわいい美青年だというのに、
本当に残念なことをしました。

でな、この「堕落の美」の大人な歌を
ドラマの中で、ジュリー演ずる良ちゃんが、
だるそう〜に、いやそう〜に歌うわけです(笑)。
ドラマの登場人物たちはその世界観に引き摺られ、
「堕落の美」「退廃美」を投影されて、
みんながみんな、
どうしても自分を愛してはくれない良ちゃんに執着し、
一緒に堕ちていく、
または愛し合って窓の景色を変えていくことを願いながら、
結局はそれぞれがひとりで堕ちていくことになる……
という、まあこじつけるなら、
「時の過ぎゆくままに」の「あなた」は誰なのかと言えば、
良ちゃんを含めた登場人物たち全員なわけです。
良ちゃんは、登場人物たちみんなに愛され求められたけど、
それを全部拒絶して、
結局は三億円の札束と心中したようなもんですからね。
あれは美しかったですね。
超萌えでしたね。
「悪魔のようなあいつ」については、
ここで超うざく超長文で語ってますので、
お時間ある方はお読みいただけると嬉しいです。


と、とりあえず、今日はここまで。
やっぱ長くなりましたね。

【その2】へ続きます。


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