ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。
カテゴリは【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。




その1からの続きです。

さて、ここらでちょっとドラマから離れて、
この歌詞をもう一度じっくり見て解析してみるってーと、
この歌詞には「あなた」という二人称しか出てこないんです。
ジュリーが(もしくは可門良が)歌ってるから、
「あなた」はジュリー(良)を一人称としての二人称だろうと
聴くほうは無意識に思わされてしまうのだけど、
よく考えてみるとそうじゃないんですよ。
前の曲「巴里にひとり」でも一人称は出てきませんが、
「巴里にひとり」の場合は、
主語こそないものの、
「ここへ来た」「かんじるばかり」「この胸つつむ」……
と、語り手である人物がああしたこうしたと、
自分の行動や気持ちを語っています。
で、主語がないために、逆にこれは
歌っているジュリーの一人称なんだろうなあと
思わせる仕掛けになっているんだと思います。
一方、「時の過ぎゆくままに」では、
「つかれて」「泣いて」「ためいきついた」と、
「あなた」の様子は描写されてますが、
その「あなた」に相対しているはずの
「僕」「私」「俺」がどうしているのか、
どう思っているのかが出てきません。
さらに、
「二人つめたいからだ合わせる」
「もしも二人が愛せるならば」
の「二人」。
「僕とあなた」ではなく「二人」という、
いわば三人称で語られているわけで、
要するにこのサビの部分は、
小説で言うなら地の文ということになります。
そう思って聴くと、歌っているジュリーは、
「あなた」=女に対する男ではなく、
この男と女の物語の外側にいてそれを語る、
神の視点の語り手のように聴こえてきて、
そうなると、この「あなた」ってのは、
男でも女でもどっちでもよくなるんですよ。
ワンコーラス目の「あなた」は男で、
ツーコーラス目の「あなた」は女とかね。
まあ、それは多少強引な解釈ですけど、
そう受け取れないこともない。
ジュリーという主体が、この歌詞のどこにもいないことで、
逆にどこにでも当てはめられると言ってもいいかもしれません。
ジュリーは「あなた」=女に対する男かもしれないし、
「あなた」のほうなのかもしれない。
または、「二人」を見ている第三者なのかもしれないし、
自分の過去を振り返って客観的に語っているのかもしれない。
どう受け取るかは、聴き手の自由です。

阿久悠氏は
「一人称か三人称かというのも、テクニックの一つである」
「また、これをわざとゴチャまぜにするというテクニックもある」
とも書いているので(「作詞入門」より)
意識してやっていたんでしょうが、
この小説的な手法は、
以前までのZUZUさんの少女漫画的世界を演じて歌うという
ジュリーのボーカルスタイルにも共通するものがあって、
その後のヒット曲ラッシュにつながっていくわけですね。
ただ、ZUZUさんの歌詞の中には、
受け手の少女たちが憧れる「僕」=ジュリーが必ずいて、
「あなた」「おまえ」を熱烈に愛していたわけですが、
阿久悠氏の小説的世界の中にジュリーはいません。
壁際に寝返り打ってるダメ男や、
憎みきれないろくでなしくんや、
不幸なサムライが出てくるのはまだいいほう(?)で、
この「時過ぎ」や次の「立ちどまるなふりむくな」には
一人称が出てこないし、
金キャミの「さよならをいう気もない」に至っては、
「私」という女性の一人称になっちゃって、
男は二人称としても出てこないありさまです。
ジュリーはラジオの「ジュリー三昧」の中で、
阿久悠氏のことを「強烈な詞を書く人だなあと思ってた」
と言ってますが、退廃美な世界観もさることながら、
その歌詞の中に歌い手自身を投影させる主体が出てこない
ということも新しく感じて、
「強烈」だと思ったのかもしれません。

それまでは、
「僕」は「あなた」を愛してる!
という主観で語る歌がほとんどだったわけで、
「あなた」がどうして別れましょうと言っているのか、
「僕」は本当はわからないんですよ。
「ニーナ!」を「二度とは悲しませない」とか言ってますが、
「僕」はニーナがなにを悲しんでいたのかは
実はわかっていない。
でも、愛しているのは「僕」なんだから、これは確実。
それだけははっきり言いますよ、という歌なわけです。
「あなた」や「ニーナ!」が実はどう思っていたかは、
聴き手である少女たちに委ねられていたんです。
だからこそ、聴き手は「あなた」に自分を投影させて、
ジュリーを思いつつ聴くことができたんですね。
でも、第三者の視点の「時の過ぎゆくままに」には、
「僕」さえも出てこなくなってます。
「あなた」も「つかれて」「泣いた」「ためいきついた」
と状況説明はありますが、
どう思っているかははっきりとは語られません。
「僕」も「あなた」も、どちらも、
「ただよいながら 堕ちてゆくのもしあわせ」
と思っているのか、それとも、
愛せるようになって、
「窓の景色もかわってゆく」ことを
期待しているのか、わかりません。
聴き手は二人の関係そのものを委ねられてしまってます。
だからこそ、この歌は
良ちゃんと野々村さんだとも考えられるんですし、
良ちゃんと他の誰かでも、
ジュリーと自分でも、他の誰かでも、
もっと言えば、ジュリーも良ちゃんも関係なく、
自分と自分のリアルの恋人のことだと考えてもいいんです。
その自分の物語をジュリーが歌ってくれてる、とかね。
まあ、素敵。

で、ここらでやっと「昭和女性幻想」的な話ですが、
「時過ぎ」の「あなた」を普通に女性だと考えた場合、
これまでのジュリーの曲にはいなかったタイプの女性です。
「不倫三部作」から「胸いっぱいの悲しみ」での女は、
「僕」が死ぬほど愛してるって言ってるのに、
どうしても応えてくれないおそらく人妻か年上のひと。
「恋は邪魔もの」は恋が始まるところだけど、
「何も知らないお前」に優しくされて、
でも、まだ前の恋を忘れられていない「僕」は
どうしようかと迷ってる。
「追憶」の「ニーナ!」は「僕」のことが好きすぎて、
瞳が思い詰めちゃってるし、
「白い部屋」の「あなた」は、
なんでかはわからないけど
もういなくなっちゃってて(たぶん死んでる)
「僕」は「むなしい広さ」とか言って嘆いてる。
言ってみれば、みんな真面目です。
「あなた」も「僕」も真面目に恋をして、
真面目ゆえに、
別れましょうと言ったり、
白いバラの花びらを散らしたり、
おそらく本当に死んでしまったりしています。
それが、この「時過ぎ」の「あなた」は、
「生きてることさえいやだと泣いた」
「心のいたではいやせはしない」
とか言っちゃって、すんごくつらそうなのに、
しかももう二人の間に愛はないっぽいのに、
そんな状況を打開するために
なにかしようとはしていません。
「時の過ぎゆくままに」要するに流されるままに、
なんも考えずに、なんもせずに、
「ただよいながら 堕ちてゆく」んですよ。
「もしも二人が愛せるならば」ってのも、
自分でどうにかしようって気概はなくて、
なんだか他力本願というか、
成り行きでどうにかならないかなあとか
思ってるっぽくないですか?

不真面目です。
愛に対して不真面目。

「不倫三部作」のところで述べたように、
昔は恋愛というものは、
若いころの一時の気の迷い、遊びのようなものと、
大人(世間)には認定されていて、
恋愛していることがバレると、
「手が早くて困ったもんだ」とか、
「ふしだら」とか言われたりもしていました。
それに対して若者代表のジュリーは、
自分の恋は真面目なんだということを言うために、
「あなただけでいい」「死んでもいい」と、
ふるふるしながら訴え、
それに応えた女たちは本当に死んでしまったり、
応えられないときには
はっきりと「別れましょう」と言ってたわけです。
それが、「時過ぎ」では、
もう愛はないらしいのに「からだ合わせ」てたり、
「心のいたではいやせはしない」
なんつって泣いてばっかいるのに
別れるという選択はしないらしい。
「不倫三部作」のときの価値観で言ったら、
これは「ふしだら」以外のなにものでもないです。
恋愛は命かけるぐらい真面目にやっているからこそ
美しく尊いものだと訴えることができたのに、
はっきり言って、このふたりは
惰性で付き合ってるとしか思えません。
人に(世間様に)誇れない。
でも、それがいい、という世界観なわけです。
阿久悠氏言うところの
「ようやく日本の社会に、堕落の美が
 似合うようになってきた贅沢の気分」
ってやつですかね。
愛に対して不真面目でも惰性でも、
それでも一緒にいて堕ちていくしかない男女関係は、
そのふたりしかいないという点では美しいよねー
てなところでしょうか。
「恋愛はふしだら」の呪縛から解き放たれて、
その先へ行けるようになってきたのかなあとも思います。

これより前のシングル曲に出てくる女たちは、
世間を気にして別れたがったり、
「僕」に「行くな」と言われなければ、
愛しているはずの「僕」のところに
留まることもできずにいて、
なんというか主体性がないように見えて
私なんかはイライラすることもあるんですが、
「時過ぎ」の「あなた」という女は、
不真面目な恋愛という場に留まることを選択しているわけで、
考えようによっては、恋愛に関しては、
それまでの女たちよりは
主体性があると言ってもいいのかもしれません。
ま、他に選択肢がない状況なんだろうなあということは、
暗〜い雰囲気の歌詞から容易に推測できますが、
男に求められたから、とか、
愛してると言われたから、とかじゃなく、
「生きることさえつらいと」ぐだぐだ言いながらも、
でも私はあなたと堕ちていくしかないのよ〜
と、結局は恋に生きる(死ぬ?)女でいることを選んでいる。
っていうか、
世間一般の男たちにとって都合のいい女性像がチラチラしていた、
これまでのシングル曲に登場する女たちと違って、
「時過ぎ」の「あなた」は男にとって相当めんどくさい女です。
都合よくない。
行き詰まったからといって、
自分から身を引いたり死んだりしてくれない。
愛してもいないのに、別れるでもなく逆にすがりつくでもなく、
ただ、ひとりで泣いたりためいきついたりしてるだけ。
どうしたらいいのかわかんなくなって、
男のほうも一緒になって疲れちゃって、
もう共依存状態になってんじゃないですかね。
そんなようなめんどくさい女は、迷惑なだけで、
特に新しい女性像というわけではないんですが、
それをあえて、あの超絶美麗期のジュリーに歌わすことで
退廃美! 堕落の美! おしゃれ!
という物語の中に織り込んだ阿久悠氏の
力技の勝利ってことなのかもしれません。

とは言っても、1975年ごろ、
普通の家のお嬢さんたちは、
まだまだお見合いで結婚する人も多かったですし、
恋愛したと言っても、結局は親も祝福する相手と結婚して、
人生の次のステージに進むというのが普通でした。
不幸でも、先行きが見えなくて堕ちてゆくしかなくても、
恋に生きる女って素敵!と思ったとしても、
それを自分の身に投影させて考えるのは、
まだハードルが高かったことでしょう。
だからこそ、この「時過ぎ」の歌詞の
小説的手法がハマったんじゃないでしょうか。
自分の身になぞらえることは難しいけれど、
物語の中のこととしてなら、
小説を読むように、ドラマや映画を観ているように、
受け取り、感情移入もすることができる。
しかも、これは実際にドラマの中で、
ジュリー演ずる良ちゃんというキャラが歌っている歌。
ジュリーはこんな恋愛はしないだろうなあと思っても、
良ちゃんなら、野々村さんならアリかもしれない、とかね。
そういういろんな仕掛けが施されていたからこそ、
かなり特殊な恋愛状況じゃないかと思われるこの歌の世界が
多くの人に受け入れられたんじゃないかと思います。

この前の曲「巴里にひとり」までは、13曲通して、
ほぼ統一されたイメージの「僕」=ジュリーが登場していて、
そのイメージはやはりザ・タイガース時代から引きずっていた、
「美少年・ジュリー」というものだったんじゃないかと思います。
少年が初めて苦しい恋をして思い悩む的な。
ZUZUさん作詞のものは
シチュエーションはそれぞれに違っていますが、
「僕」=ジュリーのキャラ設定はだいたい同じです。
それはそれで、タイガース時代からのファンにとっては
馴染みやすいものでしたでしょうし、
世間的にもまだジュリーは「元タイガースの」という
肩書付きで言われることが多かったでしょうから、
(ジュリーはいやがってたみたいですけどね)
しょうがないこともあったんでしょうが、
このときのジュリーは、もう27歳。
いつまでも「少年」とも言ってられません。
かといって、演歌みたいなベタベタな大人の歌を
ジュリーに歌わすわけにもいかない。似合わないし。
だいたい「少年」じゃなければどういうイメージで
今後は売っていったらいいんだろう?
って、まわりも思案のしどころだったのかもしれません。
そんなときに、物語仕立ての、
しかもドラマの登場人物が歌うという設定の
「時の過ぎゆくままに」は、
ちょうどいいターニングポイントになったのじゃないでしょうか。
「堕ちる」って言葉は使わないでくれ、
とナベプロからクレームが付いたらしいですけどね。
まだそこまではターンしなくていいのに〜って、
会社側では思ってたってことでしょうか。
でも、そこで屈することなく「堕ちる」を通した
久世さんと阿久悠氏、グッジョブでございます。
やっぱ、あれはそこまで突き抜けたからこその、
「少年」でも「大人の男」でもない、
ジュリーにしか表現できない立ち位置を確立できたんですよね。

ジュリーは、ラジオの「ジュリー三昧」の中で、
「時過ぎ」はドラマの中で可門良が歌う歌だから、
最初は自分=沢田研二の歌じゃないように思っていたけど、
共演者の(綺麗な)篠ひろ子さんに
「あの歌とってもいいわ。私、大好き(ハート
と言われたことで、自分の歌として意識するようになった、
みたいなことを言ってました。
最初は可門良を演じているつもりで歌っていて、
それを徐々に「沢田研二の歌」として自分の世界に持ってくる…
とか、なんかこう〜、
慣らし運転しながら新しいことに挑戦していった感じがして、
20代ジュリーってば、がんばってる! かわええ!
とか思っちゃったりするわけです。


ぜえぜえ……、なんとか着地した…か?
この歌詞は難しすぎです。
女性像つっても、上に書いたように、
その関係性は新しかったかもしれないけど、
女は特に新しい意識を持たされてはいません。
これはジュリーがいたからこそできた曲なわけですから、
そこに登場する女も、この物語の中だけの女なんですよね。


で、《裏解釈》なんですが、





最初に書いたとおり、
この曲は公式が《裏》をやってるようなもんでして…
やっぱここは「野々村さん×良ちゃん」で。


りょおおおお〜〜

おまえは病気ですっかり疲れてしまい、
生きてることさえいやだと泣くだけなのかあああ
あ、泣いてるのは俺のほうか!
おまえは死ぬまで生きるんだもんな……えらいなあ
ピアノで思い出の歌を弾いてやるからなああ
「その歌嫌い」とか言うなよおおお

りょおおおおお〜〜〜

おまえと俺が、
男と女が堕ちてゆくように愛し合えたら、
ポールシーハーパージュニアに一緒に行って、
窓の景色も変えていけるのにいいい……

りょおおおお〜〜

小指のピンキーリングは誰とオソロなんだよおおおお
え? ショーケン?
そいつに心にいたでを負わせられたのか?
そんなやつのことは忘れろおおおお
え? サリーともオソロ?
何人いるんだよおおおお
おまえがいれば俺は他になにもいらないのにいいいい
三億円よりも俺を見ろおおおお
つめたいからだでもいいから合わさせろおおおお

りょおおおおおおお〜〜〜〜


暑苦しいですね。
でも、ドラマ「悪魔のようなあいつ」そのまんまです。
ショーケンとサリーには特別出演していただきました。
あ、サリーはドラマにも出てたんだった!
ま、この曲に関しては
「公式最強」「公式最大手」ってことで(笑)


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2015/08/12(Wed) 09:20 |   |  #[ 編集]
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