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ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。
カテゴリは【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。





えーーーー
「時の過ぎゆくままに」から
ずいぶんと時間が経ってしまいましたが、
まだやってますよ
【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】

この「立ちどまるなふりむくな」で、
やっと15曲目。
44曲中の15曲目!
この、ジュリーのシングル曲考察を始めたのが、
2014年の9月。
ということは、約1年3ヶ月でやっと3分の1!
は〜〜〜、先は長いぜ……
このペースでやってくとしたら、
予定している「灰とダイヤモンド」まで終わるのは、
あと2年はかかるということですか!?
そんな長いことお付き合いくださる方は
いらっしゃるんでしょうか?
来年はもう少しペースを上げていこうかと思ってますので、
もしまだ読んでくださってる方がいたら、
ゆるーく見守ってくださるとありがたいです。
どうぞよろしくお願いいたします。

で、「立ちどまるなふりむくな」ですが、
これの記事アップが滞ってたのは、
なんつうか、これって、
あんまし書くことがないなーと思っちゃったせいで……。
歌詞に登場する「あなた」の女性像もはっきりしないし、
シチュエーションもありきたりな感じだし。
どこをどう切り口にしたらいいかわからんのよなー。

なので、サクッとやります。サクッと。

この曲って、前曲の「時の過ぎゆくままに」
アンサーソングというか、後日談ですよね。
「堕ちてゆくのもしあわせだよ」なんつって
行き詰まってた二人だけど、
どうにかこうにか状況を変え(別れて)、
先に進もうとしているのよ〜、みたいな、
そんなお話かなーと思われ、
そう思って聴くと、対応するキーワードが
いろいろ浮かび上がります。

「こわれたピアノで思い出の歌」
 ↓
「誰かがブルース口ずさむ」

「心のいたではいやせはしない」
 ↓
「心に悲しみの青いあざをつくり」

「生きてることさえいやだと泣いた」
 ↓
「生きて行くことはせつないけれど」

「つめたい身体」
 ↓
「つめたい握手」

「窓の景色」
 ↓
「とざされたウィンドウ」

などなどなど……

「ちぎれた糸」はやっぱり運命の赤い糸でしょうね。
そうなるってーと、
「時過ぎ」での「小指に食い込む指輪」が、
それに対応します。
「時過ぎ」では、まだかろうじて
繋がっていたらしい赤い糸ですが、
ふたりの心の距離が離れてしまったために、
ちぎれそうなぐらいに引っ張られ、
だからこそ食い込んでいて、痛かった。
でも、それを自分から断ち切ることはできず、
「あなた」は「昔を思って泣いた」のだけど、
繋がれているためにどこにも行くことができず、
「時の過ぎゆくままに」、
「つめたいからだ」を「合わせ」て、
「堕ちてゆく」しかなかった。
で、それは「立ちどまるな」では、ちぎれてしまったと。
「ちぎれた」ということは、
自分から断ち切ったのではなく、
どうしようもなくちぎれてしまった、ということでしょう。
自分の意志で断ち切ったわけではない「糸」を
「たぐってはいけない」のは、
「ふたりの愛は確かに終った」から。
「もしも二人が愛せるならば
 窓の景色もかわってゆくだろう」
とか、二人はほんの少しの幸せな未来の夢を見ていて、
だからこそ、そこを動くことはできなかったのに、
「楽しい夢は昨日で終った
 とざされたウィンドウのように」
って、窓はとざされ景色は見えず、
なんとか縋り付いていた夢も
終わってしまったわけですからね。

「時過ぎ」は、行き詰まったふたりの
閉塞感に満ちた関係を描いているということもあり、
イメージとしては屋内です。
「ピアノ」はなかなか屋外にはないものですし、
「からだ合わせる」つったら、まあ寝室ですわね。
部屋の中で二人きりって感じ。
それが、「立ちどまるな」では、
もう繋がれていない「あなた」は自由になり、
どこへでも行けるというわけで、屋外へと出ています。
「コート」着てますし、「走って」ますし、
「つめたい握手」(外ですから「からだ」じゃない)をして、
「通りに出たなら人ごみにまぎれ」ですからね。
二人きりじゃなくて、他にも人がいる。
で、その他の人たちの中の
「誰かがブルース」を「口ずさ」んでいる。
「時過ぎ」の「想い出の歌」は、
「あなた」だけの想い出に浸るためのもので、
他の人に聴かせるためのものではありません。
なんせ「こわれたピアノ」で、
「片手でひいて」ますしね。
そんなふうに、
誰にわかってもらえなくともいい!
堕落でもふしだらでも、
ある「男と女」の特殊な関係を、
これは二人だけの「しあわせ」なんだー!
堕落の美なんだー!
と描いたのが「時過ぎ」だったわけですが、
「立ちどまるな」で外に出てみると、
通りを歩く「誰か」もブルースを口ずさんでいる。
ということは、
もしかしてその「誰か」にも、
その人にしかわからない想い出があり、
「ブルース」はその想い出の歌なのかもしれない。
「時過ぎ」で描かれた、
他の誰とも共有できない関係だったはずのものが、
ここで一気に普遍的なものになります。
自分だけに起こったできごとであり、
他の誰にもわかってもらえないからこそ、
その関係に殉じて
「堕ちてゆく」=死んでもいいと思っていたのに、
よくあることなんだから、
立ちどまるなふりむくな、
次行け、次!
と言われてるってことですよ。
「時過ぎ」で、せっかく作り上げた堕落の美の世界を、
ぶっこわしてしまっていると言ってもいい。
だって、「時過ぎ」の世界観で言ったら、
「楽しい夢は昨日で終った
 とざされたウィンドウのように」
ってなったって、二人は外には出て行かないでしょうよ。
ますます「とざされたウィンドウ」の中に閉じ籠もって、
二人だけの世界に堕ちてゆくっていう、
通常ではありえないヤンデレな世界ですからね。
それが、「立ちどまるな」では、
「終わった」んならシーンを変えないとってんで、
二人は別れ、「あなた」はどっかに行っちゃうようです。
まー、こっちのほうが普通の人の感覚でしょう。
最初に「シチュエーションもありきたり」と書きましたが、
これはわざとありきたりにしちゃっているんですね。
たぶん。

なんで、阿久悠氏は
「時過ぎ」の後日談であろう「立ちどまるな」
こんなふつーな内容の歌詞にしたのか。

「時過ぎ」は、
久世光彦氏と阿久悠氏が、
自分たちのジュリーへの想いをこれでもかと
ぶつけて作り上げた
「悪魔のようなあいつ」というドラマの主題歌です。
そのへんのお二人の暑苦しすぎる想いは、
こっちで長々と語ってますが、
これは、
久世氏と阿久悠氏 → ジュリー
という、超個人的な、全然一般的じゃない想いを
野々村さん(他多数の登場人物) → 良ちゃん
に託して、形にした物語だったわけです。
その主題歌である「時過ぎ」もそれは同じ。
歌詞の中では一応「男と女」と言ってますが、
もうこれは性別とかどうでもいいや、てなもんで、
相手(ジュリー)のことが好き過ぎて、
でも手に入れることはできない、
んじゃ、いっそのこと一緒に死んでしまおう……
そんな関係でしか関わることができない
女(久世氏と阿久悠氏)の物語なわけです。
ここには後日談もなにもあったもんじゃないです。
だって、先がないというのがこのお話のキモですからね。

そんな通常ではなかなかありえない関係を歌った
「時過ぎ」は大ヒットし、
それまで「愛してる」だの「奪って逃げていきたい」だのと
いわばザ・タイガースのイメージを引きずった、
甘ったるいことばっか言ってた路線から、
久世さんと阿久さんがジュリーの中に見ていたという
退廃美を表現できる大人な路線へと、
ジュリーもステップアップできたわけです。

が、

良ちゃんではないジュリーは、
「時過ぎ」の世界の中にだけいるわけにはいかない。
その先も歌い続け、生きていかないといけないわけです。
下世話に言えば、他にももっとたくさんレコードを出して、
売れてもらわないと困る(会社が)。
で、阿久悠氏含めたジュリー周辺のスタッフたちは、
ジュリーをさらに次のステップに進ませるために、
「時過ぎ」の世界に終止符を打たないといけないと
考えたんじゃないでしょうか。
もしかしたら、作詞家の阿久悠氏の
このあともジュリーにいろいろ書きたい歌詞があるんだから、
いつまでも「時過ぎ」のイメージを引きずってるとやりにくい、
という、個人的な気持ちもあったのかもしれません。

で、このへんがおもしろいところだなあと思うのですが、
特に70年代当時の歌手が歌うシングル曲なんてものは、
曲ごとに世界が違っていて、相互の関連はなく聴くものと、
私は認識していたのですが、
ジュリーのシングル曲に関しては、
なーんとなく、
曲と曲の間に関連性を見ることができるんですよ。
だから、シングル曲のタイトルを繋げて
こんなこともできちゃうんですが、
これって、他の歌手でもそうだったんでしょうか?
(ジュリー以外の歌手のシングル曲は正確に覚えてないので
 わからないのですすみません)
「あなただけでいい」「死んでもいい」
身悶えるような恋心を訴えたあとは、
「あなた」の方から別れを切り出す
「あなたへの愛」「危険なふたり」で、
それとなく「僕」=ジュリーの恋は
実らなかったのよと匂わせたり、
ニーナが(おそらく)死んでしまって、
「オーオー オー! ニーナ!」と「追憶」したあとは、
「白い部屋」で消えてしまったあなたの愛を思い、
んでもって、その思いを断ち切るように
「巴里にひとり」旅に出てしまう……
なんというか、まるで、ある特定の物語の中に
ジュリーが閉じ込められてしまわないように、
特に激しい恋を歌ったあとは、必ず揺り戻しのような
内容の曲がきてるような気がします。

なので、この「立ちどまるなふりむくな」も、
それと同じような感覚で、
「時過ぎ」の強烈すぎる世界観から
ジュリーを救い出すための一曲だったのかなあと、
かように思うわけです。
なんですけどね……、
しかし、これはどうなのよ?
と、私は思っちゃうわけです。
「ありきたり」「ぶっこわす」「ふつー」と、
うっすらネガティブワードが上でも続いちゃってるように、
私はこの「立ちどまるな」の世界観が、
まったく気に入らないんです。
(個人の感想です。この曲が好きな方ごめんなさい)

「時過ぎ」「立ちどまるな」どちらの「あなた」も、
素直に女のことだと考えた場合、
「時過ぎ」の「あなた」は、
自立した女とは言えないとはいえ、
少なくとも男にとって都合のいい女ではありません。
たぶん縋り付くという、
ヤンデレな超迷惑行動でもって、
もう愛はないのに男から離れようとしないんですよ。
世間の白い目も身内からの圧力も、
相手の男の迷惑顔もなんのその、
恋に生き恋に死ぬ気満々です。
だってもう自分には他に行くところがないんですから。
で、男のほうもそんな女を簡単に切り捨てることもできず、
もうどーでもいいやーってなっちゃって、
そんじゃあ二人で死のうか〜ってなってる歌なわけです。
それが「退廃美」「堕落の美」ってやつだったんですよね。
世間一般の物差しでは測れない関係というものが、
男女の間にはあるんだよ…という世界だったはずです。

そ・れ・が!
「立ちどまるな」では、
特別な関係だったはずの「ふたりの愛」が、
道を歩く「誰か」にもあるだろうってな、
一般的な恋愛話にされちゃってます。
それで「あなた」=女は男と別れて、
どこやらへ行っちゃうんですよ。
「走って行」くんだか
「あてなくゆれながら歩いて行」くんだか知りませんが、
「立ちどまるなふりむくな」なんて一見いいような、
励ましのお言葉をかけられて、
「ちぎれた糸をたぐってはいけない」なんて言われて。
余計なお世話です。
それに、なんでいちいち命令形なんですかね?
たぐりたかったら勝手にたぐるし、
立ちどまりたかったら
勝手に立ちどまったりふりむいたりしますよ。
でも、この女はたぶん、こんなふうに言われたことで、
立ちどまらずふりむかずに歩いて行くんですよきっと。
赤い糸がちぎれるなんて、
男女の間ではよくあることなんだから、
ここにいちいち立ちどまってたらふりむいてたら、
だめですよってな話になってるわけです。
こわれた恋に縋り付いてないで、
立ちどまらずふりむかずに未来へ歩いて行くのが
イマドキのいい女ってもんですよ、
なーんて言われてさー、
ちょっとその気になったりなんかもしてさー。
だって、そうしないと、
「時過ぎ」の男(ジュリー)は解放されないから。
んでもって、その男はどうかと言えば、
「つめたい握手もう二度とできない」なんつって、
握手でさよならですよっ!
一見かっこいい対等な男女の関係のように思われますが、
「堕ちてゆく」まで思い詰めた女なんだったら、
最後まで責任持てよと言いたくなります。
もう二度とできないつめたい握手をして、
通りに出ていく女を見送ったら、
「はー、やれやれ」ってなもんなんじゃないですか?
どうも、この歌詞には男に都合のいい女性像が
〝無意識に〟出ちゃってる感じがしてイライラします。
傷付いてもひとりで歩いて行く女ってかっこいいよね…
なんていう、一見女を持ち上げてるようなところも、
またイライラします。

以前のジュリーの曲に出てくる女は、
恋に敗れると死んでしまったり、
意に沿わない相手(夫?)のところに戻されたりと、
自分の意志で行動していることがなさすぎて
イライラさせられましたが、
この「立ちどまるな」の女は、
男と別れて自分の足で歩いて行くわけですから、
キャラ設定としては自立した女のように見えます。
が!
恋愛関係が終わったら自分から去っていく、
という、男に都合のいい部分は同じなんですよ。
しかも、男のことが嫌いになって出て行くのではなく、
「ふたりの愛は確かに終わった」のだからと、
しょうがないけど、自分から立ち去っていく。
男は嫌われているわけではない、というところもキモでして、
自分を愛している女が泣きながら去っていく、
ツライわー、俺って罪な男だわーっていう、
そんな男の自分大好き愛がダダ漏れてる感じがしませんかね?
阿久悠氏は、それまでのジュリーの曲に出てきた女とは違う、
自分の意志を持った、
新しい女性像をと思って書いたつもりかもしれませんが、
上で書いたように〝無意識に〟
男に都合のいい女を書いちゃってるんですね。
その女の「意志」は、
男から見た「女の意志」でしかありません。

どうも阿久悠氏は、
ジュリーに理想の男性像(それもかなりマッチョな)を
投影していたようなフシがあります。
「どんなにかっこ悪い男を書いても、
 ジュリーが歌えばかっこよくなるから、
 安心してかっこ悪い男の歌詞を書けた」
ってなことも言っていました。
この「かっこ悪い男」というのが、
阿久悠氏にとっての理想の男なんですよね。
かっこ悪くても女に受け入れてもらえる。
関係が行き詰まると女のほうから出ていってくれる。
男はそれを嘆くけれども、
「行くな」と引き止めることはしない。
なぜなら、そうして傷付いた僕ちゃんかわいそう〜
という状況に浸る……
それが「かっこ悪かっこいい男」だから。
こう言っちゃうと身も蓋もない感じですが、
こんな男でも、ジュリーが歌えばかっこよくなる、
だから大丈夫!と「安心して」量産したのが、
「さよならをいう気もない」「勝手にしやがれ」からの
ヒット曲の数々だったんじゃないでしょうか。

阿久さんの歌詞は、
言葉の選び方、シチュエーションの持ってき方、
レトリックの使い方が秀逸で、
歌詞としては「うまいな〜」と感心させられますし、
好きな曲もあるんですが、
その物語の中に出てくる女性像には、
「男に都合がいい」という部分が滲み出てる感じがして、
私はどーも気に食わないものが多いんですよ。
これは、今の時代の今の私だから、
そう思うんですかね?
70年代当時の女性たちにとっては、
この阿久悠氏の歌詞に登場する女たちってのは、
どう受け取られていたんでしょうか?
新しい? 古い?
いやいや、そんなのどうでもいい?
まー、歌ってるのがジュリーですからね、
出てくるのがどんな女だろうと、
ファンはぽわわ~んと聴くだけってのはわかります。
わかりますが、ここは
【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】です。
なるべくそのぽわわ~んの部分から離れて、
歌詞の中に現れている女性像を
掘り下げたいと思ってますので、
「さよならをいう気もない」以降の
阿久悠ワールドでの記事では、
イライラ成分多めの考察になるかと思います。
すみません。

あ、ファンはぽわわ~んと聴くだけ、と書きましたが、
この「立ちどまるな」は、
ぽわわ~ん成分も少なめな気がします。
なんでかつったら、
「立ちどまるなふりむくな」っていう命令形が、
ジュリーのキャラとは相容れないからじゃないですかね。
「立ちどまらないでくれ」
「ふりむかないでくれ」
ならわかるんですよ。
ジュリーにそんな「お願い」されたら、
「はいはいはいはい」つって言うとおりにするだけですが、
「ダーリング」がそうですね。お願いだらけ)
この曲の一人称が出てこない三人称マジックもあって、
どーもこれはジュリーの言葉のようには聴こえない。
んでもって、「時過ぎ」のような
強烈な世界観があるわけでもないので、
その物語性のようなものも中途半端になってしまい、
イライラ度が増幅されるって寸法なんじゃないでしょうか。

と、阿久悠氏の悪口(?)はここまで(笑)。
一緒に「時過ぎ」ワールドを作り上げた久世光彦塾長は、
この曲をどう解釈したかと言いますと、
「立ちどまるなふりむくな」と言われて歩き出すのは
ジュリーである、という、そういうことだったようです。

で す よ ね ーーー !!

さすが塾長、わかってらっしゃる。
久世光彦氏がプロデュースした
「セブンスターショー」という歌番組で、
この「立ちどまるなふりむくな」
ジュリーが歌っているんですが、
曲の冒頭、ジュリーは腕に巻かれてどこかに繋がれた
「糸」ならぬロープを力任せに引きちぎって、
そのちぎれたロープを手首に巻いたまま歌います。
ここでもう、耽美っつうかなんつうか、
やらかしましたね!って感じ爆発でございますよ。

本当にありがとうございます!

途中、シーンが変わり、外に出て歌うんですが、
衣装が変わってコート着てるし。
しかも、ロープは腕に巻かれたままだし。
「立ちどまるなふりむくな」という言葉は、
「時過ぎ」で得た世間の評価や
イメージに安住することなく、
この先も進んでいけよ、という久世氏からの
ジュリーへのメッセージのようにも聞こえます。
しかし、
どこに歩いていくでもなく、立ちどまったまま、
新宿の高層ビルを背景に、
夜空を見上げるジュリーが小さくなる遠景で曲は終わり、
続くシーンでジュリーは、
最初に着ていたピンクのひらひらした衣装で、
ひとりでベッドに寝て、バラの花を食いちぎって(!)、
「フランチェスカの鐘」を歌い始めます。
ジュリーは全然どこにも行ってないんですよ。
最初のところに戻ってきている。
しかも、歌う曲は、
「あの人と別れた夜はただなんとなくめんどくさくて
 さよならバイバイ言っただけなのに」
という、なんとも堕落の美、退廃美です。
「ただなんとなくめんどくさくて」別れちゃうんですよ!
恋に対して不真面目です!
「時過ぎ」と同じ世界観です。
ジュリーはやっぱこうだよね〜
という久世氏の声が聞こえるようです。
しかも、この「フランチェスカの鐘」の最後、
アウトロのギターのフレーズが
「悪魔のようなあいつ」のBGMと似てる。
っていうか、同じですよね?これ。
ああ、良ちゃんが帰ってきてる〜〜てなもんです。

まー、塾長にとってのジュリーは、
自分の中の理想の男性像を投影する対象とか、
そういうものではなく、
ジュリーのままで、ジュリーだから好き!
という、そういう対象ですからね。
もっと言えば、自分が「これはジュリーイメージだ!」
と思う歌をジュリーが歌ってくれたらなおいい!
というシンプル思考。
「セブンスターショー」では、
檻の中に閉じ込めて「ざんげの値打ちもない」とかも
歌わせてますしね。
まことにわかりやすい。あっぱれでございます。

それと、この、ジュリーが歌う「あなた」が、
実はジュリー自身である、という解釈は、
結構どの曲にもあてはまって、
というか、そういうふうに聴いたほうが
しっくりくる歌詞がほとんどと言ってもいいと思います。
ま、私が腐女子的にジュリーを見ているせいもありますが、
そうじゃなくて、男女の関係としてみても、
「死んでもいい」とか、
「二度とは悲しませない」とか、
そこまで熱烈に愛されるのはジュリーのほうだろうと、
思ってしまうんですね。
私の中のジュリーのイメージが、
あんまり自分からは人を愛さず、
でも、まわりの誰もに愛され欲しがられる人
というものなせいもありますが、
そんなわけで、
ジュリーが歌う「あなたを愛してる」という内容は、
誰かの自分自身へ向けた愛の告白を
ジュリーが自分で代わりに歌っている……という、
二重三重に捻れたことをやっているように
聴こえてしまいます。
久世塾長は、
「「時の過ぎゆくままに」の《あなた》も、「勝手にしやがれ」の《お前》も、戸籍謄本を調べたらきっと《男》と記されているに違いない。」
とかいう、腐女子歓喜な発言をされてますが、
この《男》は、ジュリーの相手が男ということではなく、
(もちろんそうでもいいんですが。というか大歓迎なんですが)
《男》=ジュリーということなんじゃないでしょうか。
塾長には
「沢田研二は女優である」発言もあることですしね。
この「女優である」ってのは、
ジュリーが女だと言っているのではないと思います。
ジュリーは男であるけれども、
ドラマや映画の物語の中では女優=ヒロインポジションだよね、
男だけどヒロイン! これってすごいよね、おもしろいよねー!

ということですよね。
今でこそ、綺麗な男の子がドラマとかに出てると
「ヒロインはこいつだな!」とか言われたりしますが、
塾長、40年ほど時代先取りしてました。すごいです。

そんなわけで、素直に歌詞だけを追っていると、
普通に「女」であるはずの登場人物が、
ヒロインポジションにすんなりハマってしまう
ジュリーが歌うことによって、
「あれ? これってジュリーのことだよね?」
となる。
ジュリーの中には、愛されるジュリーと愛するジュリーの
二人がいるっていう解釈もありですが、
ジュリーはナルではないので、
自分で自分を愛しているというふうには聴こえない。
とすると、ひとつの曲の中で、
ジュリーが愛されている物語と、
ジュリーが誰かを愛している物語という、
二重構造が形成されて、またそれが絡み合い、
その捻れ具合に「あれ?」「あれ?」ってなる瞬間が、
私は大好きなのです。


それはそうと、
「セブンスターショー」DVD発売してくれないですかね。
これの中の「時過ぎ」を歌うところは、
懐かし昭和歌謡曲番組でよく流れるので、
映像は残っているんだと思うんですよ。
この番組の中で歌う「スティング」ってのも、
私は大好きでして、
このジュリーが私の中での
ナンバーワンかもしれないってぐらい好きです。
かっこいいかわいい美しいいいいい!
歌詞もいい!
DVD化、お願いします。誰か!!


サクッとやりますとか言ってましたけど、
結局長くなってしまいましたね。
ちょっと今回は文句多めですみませんすみません。





で、「裏」です〜〜










ま、ここは塾長解釈に乗っかるしかないでしょうな。
てなわけで、野々村さん再登場です。


りょおおおお〜〜〜〜〜
立ちどまるなふりむくな
りょおおおお〜〜〜〜〜
三億円はお前になんにもしてくれないぞおお
ちぎれた糸をたぐるのはよせええ
ピッカピカの船なんかどこにも見えないんだ
おまえは自分の力で
歩いて行くしかないんだよおおお

りょおおおお〜〜〜〜〜
俺たちの愛は確かに終った
俺は死んじゃったしなあああ
おまえと心中したかったけど
りょおおおお〜〜〜〜〜
おまえは死ぬまで生きるんだろおお
生きて歩いて行けえええええ

りょおおおお〜〜〜〜〜
ふたりでポールシーハーパーJr.に行くなんて
楽しい夢は昨日で終わっちまったんだあああ
りょおおおおおおお〜〜〜〜
立ちどまるなふりむくなああああ
コートのえりを立てて走って行けええええええ



もう死んでるってのに、
野々村さんはやっぱり暑苦しいですね(笑)

俺はどこにも行かないよ、野々村さん
三億円と一緒にずっとここにいて、
コールボーイとチンケなギター弾きをやってるよ
それが、俺の世界ってことなんだ……

とかいう、良ちゃんの声が聞こえてきそうです。

そう考えると、あのドラマは、
誰の愛にも応えず、
ひとりでどこかに行くことを夢見ていた良ちゃんは、
結局「悪魔のようなあいつ」の世界に
ひとり残ってしまい、どこにも行かず、
ずっとあそこでひとり美しく笑っているっていう、
そういう話だったってことなんですかね。
切ないですね……

っていうか、
少なくとも久世塾長にとっては、
そうであってほしかったってことですよね。
自分が作り上げた、
血まみれになって札束の中で美しく笑う
良ちゃん(ジュリー)が独り占めですもんね。
しかもそれを映像にしてお茶の間に流すとか…
力を持ったオタク(腐女子)って、
怖ろしい(素晴らしい)ですね(笑)


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