ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。

カテゴリは【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。




「君をのせて」から「コバルトの季節の中で」までの
17曲の解説を載せた
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ついに来てしまいましたね。
超有名曲「勝手にしやがれ」
ジュリーと言えばこれ。「壁ぎわに寝がえり」と言えばジュリー。
あまりにも有名な曲なもんで、どこから切り込んでいけばいいのか全然わかりません。
ので、とりあえず、当時の私の記憶の掘り起こしから。

1977年5月にリリースされたこの曲でジュリーは、前年に辞退した年末の賞レースに参戦すべく、「どんなことでもやりました」(byレコード大賞受賞時の司会の高橋圭三さんの言葉)んだそうです。「どんなことでも」ってどんなこと?という(腐)妄想はともかく、この年、1日も休まず働いたというジュリーは、テレビ、ラジオや雑誌に出まくりでした。このころ(中学3年生)にはすっかり漫画やアニメやSFに心奪われ、オタクへの道を粛々と歩んでいた私にも、この曲は耳タコになるほど届き、あのクリーム色のスリーピースの衣装も帽子投げのアクションもはっきり覚えております。
そして、それは当時の日本国民全員がそうだったのでしょう。ある年代以上の日本人で、この曲を知らないという人はまずいないと思います。興味あるないに関わらず老若男女みんなが毎日のようにジュリーを見て「勝手にしやがれ」を聴き、そして小学生男子はジュリーの真似をして帽子を投げてなくし、親に怒られ……。
そんな社会現象になるほどにこの曲はヒットし、レコードも「時の過ぎゆくままに」に次ぐ売り上げを記録し(って、こんだけヒットした「勝手にしやがれ」「時の過ぎゆくままに」の売り上げ枚数を超えられなかったことが驚きですが)、年末の賞レースを総ナメにし、念願のレコード大賞も受賞したのでした。

2009年にファンになったばかりの私は、1976年の事件にまつわるあれこれや、この曲をヒットさせるためにジュリーが苦労したことなどを後追いで知りましたので、今でこそ「よかったね、ジュリー(涙)」とハンカチを絞る思いですが、当時はなんというか……ジュリーがレコ大とることについては、あんまり意外性を感じていなかったような気がします。

以前も書いたように、私のジュリーファーストインプレッションは小学5年生のときの「危険なふたり」。キラッキラなアイドルジュリーです。しかも、ジュリーはその時に新人というわけではなく、すでにすっかり名の売れたスターでした。私がはっきり記憶にあるのは「危険なふたり」からですが、そのずっと前からジュリーが人気者だったことは知っていたんだと思います。私にとって「ジュリー」とは、物心付いたときからいつでもテレビの中にいる人、そんな存在だったんですよ。
その「危険なふたり」から「勝手にしやがれ」までの約4年間。「恋は邪魔もの」「追憶」「時の過ぎゆくままに」とかとか、曲を聴けば「あ、知ってる」と、歌っている当時のジュリーの姿とともに記憶がよみがえるものもたくさんありますが、いかんせんただ薄ぼんやりとテレビを観ていただけの子供だった私の中で、そのへんのリリースの順番はあいまいだし、ましてやジュリーのテレビの外での事情などは全然わかっていませんでした。

ただ、ワイドショー的な噂話がなんとなく耳に届いていたのか、「勝手にしやがれ」の直前ぐらいの時期には、「ジュリーはもうテレビには出なくなったんだ…」という認識があったように思います。なので、私の感覚だと、「勝手にしやがれ」で派手に登場したジュリーは、かつて大スターだったけれど何年も(!)芸能界から離れていた人がまた復活してきた、というふうだったんですよ。
オソロシイことですね。
なんだか私のまわりだけ時間の流れが歪んでいたんじゃないのかという気もしますが、前年の事件のせいで、たったの1ヶ月とはいえ一切人目に触れないとか、賞レースや紅白を自分から辞退して年末のテレビに出ないなんて、当時の芸能界の勢いや流れの速さもあって、「このまま辞めてしまうの?」と思われてもしょうがなかったのかもしれません。
それほどのマイナスの位置からの復活を、歌謡界の最高峰である年末のレコ大受賞で飾る目標を立てたジュリーは、本当に極端というか、負けず嫌いというか、やりすぎというか……、そんなところが今は大好きなんですが、しかし、当時の私は、ジュリーがそんなに頑張っているなんてまったく知らず、当然のように話題を集め、そしてレコ大も他の賞も当然のようにかっさらっていったように思っていました。

だってね、あのころのジュリーはすでに大御所っぽかったんですよ。少なくとも私にはそう見えていました。私の歪んだ時間軸のせいですが、何年も芸能界から遠ざかっていた(と思っていた)ジュリーは実際の年齢よりももっと年上のように思われ、そんな大スターがこんなにテレビに出まくってたら、そりゃみんな注目するよなって感じがしていたんですよ。
それに、テレビの中でのジュリーの扱いって、なんだか特別じゃなかったですか? ジュリーが出てくると、若い歌手はもちろん、年かさの司会者の方々ですら、ただのファンのように「きゃ〜!」って言っちゃったり。そんなふうに、テレビのこっち側だけじゃなくて、テレビの中にもファンがいっぱいいる、そんな扱いをされているように見えたんですよ。
そんなわけで、子供の私にとって、「危険なふたり」のころは4年どころかもっと昔のことのように感じられ(私の小学5年生から中学3年生という成長期のせいもありますが)、「勝手にしやがれ」のジュリーのことは、古い芸能人たちにまでリスペクトされている、うんと年上の「おっさん」と認定してしまったのです。
なんということでしょう~。
まー、当時ジュリーは29歳。15歳の中学生から見たら、29歳も40歳もあんまり変わらない「おっさん」ですからね。特に当時は、だいたい25歳以上はひとくくりに「大人」って扱いじゃなかったですか? 私だけ?

しかも、久しぶりによく見かけるようになったと思ったら、歌っている内容は、なんだか大人な世界。
「何気無さそうに別れましょう」と言う「年上の女」に「僕には出来ない まだ愛してる」と駄々をこねる「危険なふたり」には、小学生にも理解でき、憧れられる少女漫画な世界がありました。それが、荷物をまとめて出ていく女を寝たふりして見送るなんて、「こういうのが大人の男女ってもんなんだろうなあ」と、まったく実感なく聴くしかない中学生、それは私。
結構エロいシーンもある青年誌に載っている漫画や海外のハードボイルド小説の世界ってとこでしょうか。かっこいい大人の男女関係として「学習」することはできるけれど、いずれ自分にも訪れるかもしれない恋愛として憧れるのとはちょっと違う。むしろそっち方面には行っちゃいけないと世間一般では言われているような、まさに演歌の世界です。
その、「危険なふたり」「勝手にしやがれ」の世界観のギャップの大きさによっても、ジュリーがなんだかおっさんになってしまったように感じたんだと思います。

で、その歌詞ですけどね。大ヒットしたのもよくわかる、本当によくできた歌詞だと思います。「なに言ってるかわかんねえなー」ってところはひとつもなく、どんな状況なのか男女の位置関係までがはっきりわかり、語り手である男の気持ちも、なるほど「勝手にしやがれ」ってことなんだろうなあと、疑問の余地はありません。

しかし、問題はその男ですよ。
当時、中学生の私はこれをクールでかっこいい大人の男だ〜と思って聴いていたわけですが、作詞をした阿久悠氏は「かっこ悪い男」として描いたつもりだったんですよね?
では、「ジュリーが歌うならどんなかっこ悪い男もかっこよくなるから、安心してかっこ悪い男の歌詞が書けた」という「かっこ悪い男」とはどんな男だったのか?
阿久悠氏はエッセイ「歌謡曲の時代」で「勝手にしやがれ」の歌詞について、「……真っ直ぐに、熱烈に愛することに照れるというのが、一種のトレンドのような時代で、素直であれば幸福になれるのに、斜に構えて不幸になるというのが多かった。」「ワンマンショーを気取って悲しみをごまかす男、ぼくらは三十年近く前に、そういう愛を歌で描いていた。」と書いていて、ということは、素直になれず斜に構えて不幸になり、そしてワンマンショーのように俺はひとりきりだぜと開き直って悲しみをごまかす男が「かっこ悪い」と? いやいやいや、当時はそういう男こそ「かっこいい」とされていたんじゃないですかね? 事実、当時の私はそういうのを「大人のかっこいい男」と思っていたわけですし、ジュリーも、阿久悠氏の歌詞はかっこよすぎてあんまり好きじゃないってことを言っていたんですよね?

そのへんがどーもよくわからないなーとずっと疑問だったんですが、去年(2016年)の10月に発売された「週刊現代」の「沢田研二『勝手にしやがれ』を語ろう」という、当時のプロデューサー・木崎賢治氏、マネージャー・森本精人氏、アレンジャー・船山基紀氏による鼎談記事の中で、木崎氏が「この詞は、阿久さんがフランス映画『勝手にしやがれ』の主演男優、ジャン=ポール・ベルモンドのような、カッコ悪い男をジュリーにやらせたいと思い作りました。情けない男の美学です。」と言っていて、タイトルがこの映画からのものだということは知ってはいたんですが、ベルモンドをジュリーにやらせたいと思ってということは初めて知って、あーー、そういうことか、とちょっと腑に落ちました。
「かっこ悪い」=「情けない」男ということですね。
でも、情けない男がイコールかっこ悪いってことはないですよね。
だって、ジャン=ポール・ベルモンド、かっこいいじゃないですか。映画の「勝手にしやがれ」は、遅ればせながらこないだやっとDVDを借りてきて観ました。ベルモンドは正統派ハンサムではないですが、スタイリッシュで、そしてダメそうなところがたまりませんなあと、以前からスチール画像を見るたびに思っていたんですが、実際観たらやっぱりスタイリッシュだし、すねた顔がかわいいし、そして本当にとことんダメで、そこがまたかっこよかったです。

1974年から75年にかけて放映していたショーケン主演の「傷だらけの天使」や、1977年に始まった第2シリーズで人気が出た「ルパン三世」や、平井和正のSFハードボイルド小説「アダルト・ウルフガイ・シリーズ」とかも同じ世界観じゃないかと思います。「ウルフガイ」の犬神明は、ジャン=ポール・ベルモンドに似てるって設定ですしね。大好きでした。
たいがい、敵対する悪者たちにこてんぱんにやられ、不二子ちゃんには裏切られ、ボロボロな情けない姿を晒しつつ、最後は男同士の連帯によって、もしくはそれまでは隠していた力を発揮して、勝利して筋を通すけれども、自分自身の当初の目的は果たされなかったり、想いを寄せた女とは結ばれなかったりして、でもま、それもいいか…なんつって去っていく、もしくは日常に戻る、みたいな。
映画「勝手にしやがれ」のジャン=ポール・ベルモンドは死んじゃいますが、でもその死に方も、大義のためとか誰かを救うためとかじゃなく、なんかもうどーでもいいやーって感じで死んじゃう。しかも、最後の言葉は「まったく最低だ」ですよ。死ぬ間際にきれいなことを言わないってところがまた、かっこいい。

「週刊現代」の鼎談の中で、木崎氏は「(情けない男の歌は)「ジュリーのイメージが崩れてしまう」と思ったんです」と言い、マネージャーの森本氏も「ジュリーはそれまでずっとカッコいい男の世界観を伝えてきていましたからね。」と言っています。
しかし、以前のジュリーのシングル曲のように、とにかく「愛している」ということをはっきりきっぱり言い、その愛している女のためなら「死んでもいい」とまで言う男というのは、確かにジュリーファンの女の子たちには「かっこいい〜」と思われていたんでしょうが、それって、男たちもかっこいいと思っていたんでしょうか?
「こんなナヨナヨした「愛してる」しか言わないような男がいいなんて、本当に女子供はわかってないな」とか思ってませんでしたかね? 「男のかっこよさってのはもっと違うところにあるんだ」とかさ。
そういう「違うところ」を描いたのが、映画の「勝手にしやがれ」であり、「傷だらけの天使」であり、「ルパン三世」だったんですよ。女にかかずらわってるよりも、男にはもっと大事なことがあるんだー、てとこですかね。

これを「かっこいい」「かっこ悪い」と普遍的な言い方で言うからよくわからなくなるんであって、要するに「さよならをいう気もない」のところでも言ったような、女子供にはわからないと男たちは思っているホモソーシャルな関係の中だけで通じる「かっこいい」であると考えたらいいんじゃないでしょうか。
「本来ならさらけ出したりしない男の情けなさを隠さないかっこよさってのは男同士にしかわからないよねー、普通は「かっこ悪い」って言われちゃうもんねー」ってところですかね。

なので、当時中学生の私も、「勝手にしやがれ」は「かっこいい男の歌だ」と思って聴いてはいたんですが、歌詞の内容に関しては「かっこいいわあ〜ぽわわ~ん」てのとは違って、「かっこいい大人の男ってのはめんどくさいもんだな」ぐらいの認識だったように思います。
ひねくれててすみません。



案の定、超絶長くなっちゃったので、
今回は3回に分けます。
《その2》に続く〜

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