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ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。

カテゴリは【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。




「君をのせて」から「コバルトの季節の中で」までの
17曲の解説を載せた
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《その1》からの続きです。
男同士だけがわかりあえる世界についてから。

映画「勝手にしやがれ」の最後では、ベルモンド演じるミシェルが死ぬ間際に「まったく最低だ」と言い、それに「今何て(言ったの)?」と聞いた彼女のパトリシアに、警官は「〝あなた〟はまったく最低だと(彼は言った)」と言うんですよ。
この台詞の食い違いで、このラストシーンは謎とされ、さまざまな解釈がされているようですが、いろいろ考えてみるとおもしろいです。
警官は顔が映っていないので、その人の台詞はいわば世間一般の声代表と言ってもいいでしょう。警官が故意に「あなたは」と言い換えたのか、無意識に自分の解釈を加えてしまったのかは問題ではありません。ミシェルの「最低」はなにに対してなのかわからない言い方だったのに、世間の人たちは「愛してくれている男を密告するなんて最低な女だ」と思うに違いない、ということなんですね。パトリシアは、殺人犯として指名手配されているミシェルの居場所を警察に教えるという、一般市民として当然のことをしただけなのに、しかも、事前に刑事からミシェルから連絡があったら知らせるようにと言われていたにも関わらず、そのとおりにしたら「最低な女だ」と責められる。
ここで言う「世間」というのはほぼ男社会のことです。男同士だったら、ミシェルのめちゃくちゃな生き方も理解できる。しかし、女であるパトリシアは理解することができずに、ミシェルを死なせるという最低なことをしたのだ、ということですね。
なんというミソジニー(女性嫌悪とか女性蔑視のこと)
ミシェルと警官は敵対する関係であるはずなのに、男同士であるというだけで理解し合える。犯罪者とそれを取り締まる警察という敵対関係よりも、男と女の分断のほうが大きいと言っているんです。
しかし、その後のパトリシアの「最低って何のこと」という台詞は、「どうして私が最低なの?」という疑問とも、ただ単に「最低」というフランス語を知らなかったので意味を聞いているだけとも取れるんですが(パトリシアはアメリカ人なのでそれまでもミシェルとの会話中ちょいちょいフランス語の言葉の意味を聞いている伏線があります)、なんにしろ、映画としては、ミソジニーな男社会に疑問を投げかける形で終わっていると私は解釈しました。
ミシェルが「最低だ」と言う前にする「しかめっ面」の表情の意味は警官にはわからないはずですし、男同士だというだけで「わかるわかる〜」なんてことはないよってことを示唆しているんじゃないでしょうか。本当にそうだとしたら、1960年にして巨匠ゴダール、その問題提起は素晴しいですね。

が、そんな映画からタイトルを拝借したジュリーの「勝手にしやがれ」は、どうもそのホモソーシャルにがっつり乗っかった世界観のように感じられます。
阿久悠氏は、この歌詞について、「一九七〇年代の男と女の気分がよく出ていると思う。」(「歌謡曲の時代」)と書いていますが、ちょっとちょっとー、男と女を一緒にしないでよーと言いたくなります。
だいたい、この歌詞に出てくる女の様子は、語り手の男の主観でしかありませんからね。
「悪いことばかりじゃないと想い出かき集め」ってのも、別にそんなことは思ってなくて、「なるべく金目のものは持って出なくちゃ」つって、「鞄につめこ」んでるだけかもしれないし、「ふらふら行く」のも、さも女が泣きながら歩いているふうな描写になっていますが、単に荷物が重くてまっすぐ歩けないだけかもしれないし、家を出られた嬉しさで「ふわふわ」歩いていたのかもしれないじゃないですか。
この「想い出かき集め」たり「ふらふら」歩いたりっていうのは、女は男と別れるのがつらいのだけれども、どうしようもなく、悲しみつつも出ていくのだと思いたい男の願望が反映された描写ですよね。すっかりきっぱり自分が嫌われたとは、男は思っていないんです。
そんな、まだ自分のことを愛しているはずの女ですから、支配権所有権を行使してもいいというわけで、「行ったきりならしあわせになるがいい」と上から目線で言ってますが、余計なお世話です。もう、こんな男と別れられることだけですでに幸せになってるよ!と言いたくなりませんか? なりますよねっ! きーーー!

「週刊現代」の鼎談の中で、マネージャーの森本氏が、娘さんの結婚披露宴で「勝手にしやがれ」を歌ったことを「不謹慎だ、と思うでしょう。でも、父が娘を送り出す歌にすると、ドンピシャにはまったんだよね(笑)。」と言っていました。「余談ですが」と言いながら「(笑)」付きで語られた話ですが、これを読んで、私はずっと「勝手にしやがれ」に抱いていたモヤモヤイライラの正体がわかったような気がしました。
この歌詞の男は、女のことを対等な存在とは思っていないんです。まさに父と娘の関係のように捉えている。
「行ったきりならしあわせになるがいい」とか、娘の幸せを願う昔気質の父親だったらこんなふうにも言うかなーしょーがないなーって感じなのが、それをパートナーであるはずの男が女に対して言うとか、なに「なるがいい」って、おまえが「許可」してんの? どこにそんな権限あると思ってんの?? その無意識の支配者ポジションが、イライラ通り越して怖いです。
そして「戻る気になりゃいつでもおいでよ」ですが、これも親が娘に向かって言う言葉とすれば、わからないこともない。結婚という選択が間違いだったとわかったら実家に戻ってきたらいいよ、と言ってもらえることは娘にとっては、まあ心の拠り所にはなるでしょう。昔は一度嫁に行ったらもう二度と実家の敷居は跨ぐな、と家長は言うべきとされていましたが(いつの時代だ)、「娘ちゃん大好きな優しいお父さんはそんなことは言わないよ〜」「いつでも帰ってきていいんだよ〜」っていう、ものわかりのいい父親のお言葉ですね。キモいですが、まー百万歩譲って親ならしょうがない。
しかーし、この歌詞の場合、それを言っているのはその間違った選択肢である男のほうなんですよ。女はこれ以上そいつとは暮らせないと愛想を尽かして出ていくってのに、なに「戻ってきたら許してやる俺って優しい〜」ってな自己満足に浸ってんですか。結婚する娘は別に実家がイヤで出ていくわけじゃないですけど(そういう人もいるかもしれませんが)、この歌詞の女はその男と暮らすのがもうイヤになったから出ていくんですよ。わかってますか? わかってませんよね。
さらに、「せめて少しはカッコつけさせてくれ 寝たふりしてる間に出て行ってくれ」。これも結婚式当日の朝の父親のあるあるじゃないでしょうか。娘を嫁に出す男親のつらい気持ち描写で、娘を持つ男同士の「わかるわかる〜」の大定番ですが、大人なんだからちゃんと話しろよ。「カッコつけさせてくれ」って言ってますが、全然「カッコ」ついてません。こんなことされたらもう、娘だろうが女だろうが「はあ〜〜」と溜息ついて出ていくだけですよ。呆れて。

こんなふうに「勝手にしやがれ」は、森本氏の言うように、父が娘を送り出す歌にすると、いいも悪いも含めて「ドンピシャ」なんですが、これを「男と女の気分がよく出ていると思う」なんて意識で作っているから、女の側、それも今の時代の女から見ると、不均衡でおかしなことになってるんじゃないですかね。
でも、男たちはこれをヘンだとは思っていない。父と娘にしたって、父親は娘を支配できるという意識は問題なわけで、まさにそれと同じ問題を男と女の関係にも持ち込んでいるだけだというのに、そのおかしさにに気付いていないんですよ。

だいたいね、この歌詞の大前提である、女は男のことを愛している(けど出て行く)というのは、演歌と同じく男の願望ですよね。自分がとことん愛想を尽かされたのだとは思いたくない。
女は無条件に男のことを愛しているのだけれど、男が「ふざけて困らせた」り「愛というのに照れてた」りという、素直じゃない態度でいたために、(愚かな)女はそれを「愛」だとは理解できず、自分の愛に男は応えてくれないと「勘違いして」出ていってしまったと、男は思っているわけです。男同士だったら無言でわかり合えるこの気持ちを、女はわからない。
もしその女が戻ってきたとしたら、その「勘違い」が正されて、「愛というのに照れてただけ」だったんだねと女がわかってくれたからだと、男は思うだけです。だから、自分の態度は改めなくてもいい。以前と同じようにふざけてても大丈夫。

は~~、もう! なんだかもう!!
こんな男のところには戻らなくてよろしい! てか、戻っちゃダメー! と言いたくなりますが、この曲のアンサーソングと言われている山口百恵の「プレイバックPart2」の最後では、「私やっぱり帰るわね」つって、帰っちゃうんですよね。
なぜだ!!

ワンコーラス目はいいんですよ。「真紅(まっか)なポルシェ」で「気ままにハンドル切」って「ひとり旅」とか、かっこいいじゃないですか。やっぱり男が窓から見ていた「ふらふら行く」女は、単に駐車場まで運ばないといけない荷物が重かっただけなんですよ。それに「馬鹿にしないでよ そっちのせいよ これは昨夜の私のセリフ」ってことは、ちゃんと言いたいこと言って出てきたんですね。よかったよー。しかも、「女はいつも待ってるだけ」とか言って支配してこようとする男に対して、「坊や、いったいなにを教わってきたの」って、そっちのほうがなにも知らない子供じゃん!と、ずどーんと地面に叩きつける勢い。
言ってやれ言ってやれ、どんどん言ってやれーと拳振り上げて応援する勢いですが、最後のフレーズ「私だって、私だって、疲れるわ」で、ちょーっとイヤな予感がよぎります。
え? そこ、「怒る」じゃなくて? 「馬鹿にしないでよ」って強気できた女が、ここで「私のことも少しはわかってよ」って、男に泣き付いてるような、そんな雰囲気です。そこを歌うときの百恵ちゃんの、ちょっと上目遣いになるような甘えてるような歌い方のせいもあるんですけどね。
そのイヤな予感は的中して、ツーコーラス目の最後では結局「私やっぱり、私やっぱり、帰るわね」ってなっちゃうので、この「疲れるわ」の、女の弱さをチラ見せする百恵ちゃんの表現は大正解なんですが、そもそもなんで「帰る」んですか? しかも「強がりばかり言って」支配しようとしてくる男に対して、「本当はとても淋しがり屋よ」と先回りした理解までしてやるとか、これって、完全に男に都合のいい女になっちゃってますよね。残念だー。

「プレイバックPart2」がリリースされたのは、1978年5月。「勝手にしやがれ」のちょうど1年後です。車を自分で運転して(しかもポルシェ!)、交差点で文句つけてきた隣の車の男に怒鳴り返すぐらいの気の強い女であっても、愛してくれている男のことは許してあげるべき、というか、そもそも女とはそういうものでしょ、というのが一般的な認識だったんでしょう。まさに男に都合のいいホモソーシャルな縛りから、女性ボーカルの歌ですら自由になれないでいたわけです。
昭和の限界か。
この戻った女が男を尻に敷いて思い通りにするっていう未来もありなんじゃない?と言っていたジュリ友さんもいましたが、そうなったらそうなったで、結局は男の母親的な役割に落ち着くことになってしまい、いくら言ってもふざけてばかりの男に対して「いいかげんにして 私あなたのママじゃない」とブチ切れることになるような気しかしません。
この超かっこいい歌詞の「ロックンロール・ウィドウ」は、「プレイバックPart2」から2年後の1980年リリース。ということは、昭和というよりも1970年代の限界だったんでしょうか。
ジュリーの曲も80年代からは、男に都合のいいようなものばかりじゃなくなっていますし、古いタイプの男女を歌う昭和歌謡が広く受け入れられた最後の時代だったのかもしれません。


《その3》に続きます。


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