ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。

カテゴリは【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。




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ついに来てしまいましたね。
超有名曲「勝手にしやがれ」
ジュリーと言えばこれ。「壁ぎわに寝がえり」と言えばジュリー。
あまりにも有名な曲なもんで、どこから切り込んでいけばいいのか全然わかりません。
ので、とりあえず、当時の私の記憶の掘り起こしから。

1977年5月にリリースされたこの曲でジュリーは、前年に辞退した年末の賞レースに参戦すべく、「どんなことでもやりました」(byレコード大賞受賞時の司会の高橋圭三さんの言葉)んだそうです。「どんなことでも」ってどんなこと?という(腐)妄想はともかく、この年、1日も休まず働いたというジュリーは、テレビ、ラジオや雑誌に出まくりでした。このころ(中学3年生)にはすっかり漫画やアニメやSFに心奪われ、オタクへの道を粛々と歩んでいた私にも、この曲は耳タコになるほど届き、あのクリーム色のスリーピースの衣装も帽子投げのアクションもはっきり覚えております。
そして、それは当時の日本国民全員がそうだったのでしょう。ある年代以上の日本人で、この曲を知らないという人はまずいないと思います。興味あるないに関わらず老若男女みんなが毎日のようにジュリーを見て「勝手にしやがれ」を聴き、そして小学生男子はジュリーの真似をして帽子を投げてなくし、親に怒られ……。
そんな社会現象になるほどにこの曲はヒットし、レコードも「時の過ぎゆくままに」に次ぐ売り上げを記録し(って、こんだけヒットした「勝手にしやがれ」「時の過ぎゆくままに」の売り上げ枚数を超えられなかったことが驚きですが)、年末の賞レースを総ナメにし、念願のレコード大賞も受賞したのでした。

2009年にファンになったばかりの私は、1976年の事件にまつわるあれこれや、この曲をヒットさせるためにジュリーが苦労したことなどを後追いで知りましたので、今でこそ「よかったね、ジュリー(涙)」とハンカチを絞る思いですが、当時はなんというか……ジュリーがレコ大とることについては、あんまり意外性を感じていなかったような気がします。

以前も書いたように、私のジュリーファーストインプレッションは小学5年生のときの「危険なふたり」。キラッキラなアイドルジュリーです。しかも、ジュリーはその時に新人というわけではなく、すでにすっかり名の売れたスターでした。私がはっきり記憶にあるのは「危険なふたり」からですが、そのずっと前からジュリーが人気者だったことは知っていたんだと思います。私にとって「ジュリー」とは、物心付いたときからいつでもテレビの中にいる人、そんな存在だったんですよ。
その「危険なふたり」から「勝手にしやがれ」までの約4年間。「恋は邪魔もの」「追憶」「時の過ぎゆくままに」とかとか、曲を聴けば「あ、知ってる」と、歌っている当時のジュリーの姿とともに記憶がよみがえるものもたくさんありますが、いかんせんただ薄ぼんやりとテレビを観ていただけの子供だった私の中で、そのへんのリリースの順番はあいまいだし、ましてやジュリーのテレビの外での事情などは全然わかっていませんでした。

ただ、ワイドショー的な噂話がなんとなく耳に届いていたのか、「勝手にしやがれ」の直前ぐらいの時期には、「ジュリーはもうテレビには出なくなったんだ…」という認識があったように思います。なので、私の感覚だと、「勝手にしやがれ」で派手に登場したジュリーは、かつて大スターだったけれど何年も(!)芸能界から離れていた人がまた復活してきた、というふうだったんですよ。
オソロシイことですね。
なんだか私のまわりだけ時間の流れが歪んでいたんじゃないのかという気もしますが、前年の事件のせいで、たったの1ヶ月とはいえ一切人目に触れないとか、賞レースや紅白を自分から辞退して年末のテレビに出ないなんて、当時の芸能界の勢いや流れの速さもあって、「このまま辞めてしまうの?」と思われてもしょうがなかったのかもしれません。
それほどのマイナスの位置からの復活を、歌謡界の最高峰である年末のレコ大受賞で飾る目標を立てたジュリーは、本当に極端というか、負けず嫌いというか、やりすぎというか……、そんなところが今は大好きなんですが、しかし、当時の私は、ジュリーがそんなに頑張っているなんてまったく知らず、当然のように話題を集め、そしてレコ大も他の賞も当然のようにかっさらっていったように思っていました。

だってね、あのころのジュリーはすでに大御所っぽかったんですよ。少なくとも私にはそう見えていました。私の歪んだ時間軸のせいですが、何年も芸能界から遠ざかっていた(と思っていた)ジュリーは実際の年齢よりももっと年上のように思われ、そんな大スターがこんなにテレビに出まくってたら、そりゃみんな注目するよなって感じがしていたんですよ。
それに、テレビの中でのジュリーの扱いって、なんだか特別じゃなかったですか? ジュリーが出てくると、若い歌手はもちろん、年かさの司会者の方々ですら、ただのファンのように「きゃ〜!」って言っちゃったり。そんなふうに、テレビのこっち側だけじゃなくて、テレビの中にもファンがいっぱいいる、そんな扱いをされているように見えたんですよ。
そんなわけで、子供の私にとって、「危険なふたり」のころは4年どころかもっと昔のことのように感じられ(私の小学5年生から中学3年生という成長期のせいもありますが)、「勝手にしやがれ」のジュリーのことは、古い芸能人たちにまでリスペクトされている、うんと年上の「おっさん」と認定してしまったのです。
なんということでしょう~。
まー、当時ジュリーは29歳。15歳の中学生から見たら、29歳も40歳もあんまり変わらない「おっさん」ですからね。特に当時は、だいたい25歳以上はひとくくりに「大人」って扱いじゃなかったですか? 私だけ?

しかも、久しぶりによく見かけるようになったと思ったら、歌っている内容は、なんだか大人な世界。
「何気無さそうに別れましょう」と言う「年上の女」に「僕には出来ない まだ愛してる」と駄々をこねる「危険なふたり」には、小学生にも理解でき、憧れられる少女漫画な世界がありました。それが、荷物をまとめて出ていく女を寝たふりして見送るなんて、「こういうのが大人の男女ってもんなんだろうなあ」と、まったく実感なく聴くしかない中学生、それは私。
結構エロいシーンもある青年誌に載っている漫画や海外のハードボイルド小説の世界ってとこでしょうか。かっこいい大人の男女関係として「学習」することはできるけれど、いずれ自分にも訪れるかもしれない恋愛として憧れるのとはちょっと違う。むしろそっち方面には行っちゃいけないと世間一般では言われているような、まさに演歌の世界です。
その、「危険なふたり」「勝手にしやがれ」の世界観のギャップの大きさによっても、ジュリーがなんだかおっさんになってしまったように感じたんだと思います。

で、その歌詞ですけどね。大ヒットしたのもよくわかる、本当によくできた歌詞だと思います。「なに言ってるかわかんねえなー」ってところはひとつもなく、どんな状況なのか男女の位置関係までがはっきりわかり、語り手である男の気持ちも、なるほど「勝手にしやがれ」ってことなんだろうなあと、疑問の余地はありません。

しかし、問題はその男ですよ。
当時、中学生の私はこれをクールでかっこいい大人の男だ〜と思って聴いていたわけですが、作詞をした阿久悠氏は「かっこ悪い男」として描いたつもりだったんですよね?
では、「ジュリーが歌うならどんなかっこ悪い男もかっこよくなるから、安心してかっこ悪い男の歌詞が書けた」という「かっこ悪い男」とはどんな男だったのか?
阿久悠氏はエッセイ「歌謡曲の時代」で「勝手にしやがれ」の歌詞について、「……真っ直ぐに、熱烈に愛することに照れるというのが、一種のトレンドのような時代で、素直であれば幸福になれるのに、斜に構えて不幸になるというのが多かった。」「ワンマンショーを気取って悲しみをごまかす男、ぼくらは三十年近く前に、そういう愛を歌で描いていた。」と書いていて、ということは、素直になれず斜に構えて不幸になり、そしてワンマンショーのように俺はひとりきりだぜと開き直って悲しみをごまかす男が「かっこ悪い」と? いやいやいや、当時はそういう男こそ「かっこいい」とされていたんじゃないですかね? 事実、当時の私はそういうのを「大人のかっこいい男」と思っていたわけですし、ジュリーも、阿久悠氏の歌詞はかっこよすぎてあんまり好きじゃないってことを言っていたんですよね?

そのへんがどーもよくわからないなーとずっと疑問だったんですが、去年(2016年)の10月に発売された「週刊現代」の「沢田研二『勝手にしやがれ』を語ろう」という、当時のプロデューサー・木崎賢治氏、マネージャー・森本精人氏、アレンジャー・船山基紀氏による鼎談記事の中で、木崎氏が「この詞は、阿久さんがフランス映画『勝手にしやがれ』の主演男優、ジャン=ポール・ベルモンドのような、カッコ悪い男をジュリーにやらせたいと思い作りました。情けない男の美学です。」と言っていて、タイトルがこの映画からのものだということは知ってはいたんですが、ベルモンドをジュリーにやらせたいと思ってということは初めて知って、あーー、そういうことか、とちょっと腑に落ちました。
「かっこ悪い」=「情けない」男ということですね。
でも、情けない男がイコールかっこ悪いってことはないですよね。
だって、ジャン=ポール・ベルモンド、かっこいいじゃないですか。映画の「勝手にしやがれ」は、遅ればせながらこないだやっとDVDを借りてきて観ました。ベルモンドは正統派ハンサムではないですが、スタイリッシュで、そしてダメそうなところがたまりませんなあと、以前からスチール画像を見るたびに思っていたんですが、実際観たらやっぱりスタイリッシュだし、すねた顔がかわいいし、そして本当にとことんダメで、そこがまたかっこよかったです。

1974年から75年にかけて放映していたショーケン主演の「傷だらけの天使」や、1977年に始まった第2シリーズで人気が出た「ルパン三世」や、平井和正のSFハードボイルド小説「アダルト・ウルフガイ・シリーズ」とかも同じ世界観じゃないかと思います。「ウルフガイ」の犬神明は、ジャン=ポール・ベルモンドに似てるって設定ですしね。大好きでした。
たいがい、敵対する悪者たちにこてんぱんにやられ、不二子ちゃんには裏切られ、ボロボロな情けない姿を晒しつつ、最後は男同士の連帯によって、もしくはそれまでは隠していた力を発揮して、勝利して筋を通すけれども、自分自身の当初の目的は果たされなかったり、想いを寄せた女とは結ばれなかったりして、でもま、それもいいか…なんつって去っていく、もしくは日常に戻る、みたいな。
映画「勝手にしやがれ」のジャン=ポール・ベルモンドは死んじゃいますが、でもその死に方も、大義のためとか誰かを救うためとかじゃなく、なんかもうどーでもいいやーって感じで死んじゃう。しかも、最後の言葉は「まったく最低だ」ですよ。死ぬ間際にきれいなことを言わないってところがまた、かっこいい。

「週刊現代」の鼎談の中で、木崎氏は「(情けない男の歌は)「ジュリーのイメージが崩れてしまう」と思ったんです」と言い、マネージャーの森本氏も「ジュリーはそれまでずっとカッコいい男の世界観を伝えてきていましたからね。」と言っています。
しかし、以前のジュリーのシングル曲のように、とにかく「愛している」ということをはっきりきっぱり言い、その愛している女のためなら「死んでもいい」とまで言う男というのは、確かにジュリーファンの女の子たちには「かっこいい〜」と思われていたんでしょうが、それって、男たちもかっこいいと思っていたんでしょうか?
「こんなナヨナヨした「愛してる」しか言わないような男がいいなんて、本当に女子供はわかってないな」とか思ってませんでしたかね? 「男のかっこよさってのはもっと違うところにあるんだ」とかさ。
そういう「違うところ」を描いたのが、映画の「勝手にしやがれ」であり、「傷だらけの天使」であり、「ルパン三世」だったんですよ。女にかかずらわってるよりも、男にはもっと大事なことがあるんだー、てとこですかね。

これを「かっこいい」「かっこ悪い」と普遍的な言い方で言うからよくわからなくなるんであって、要するに「さよならをいう気もない」のところでも言ったような、女子供にはわからないと男たちは思っているホモソーシャルな関係の中だけで通じる「かっこいい」であると考えたらいいんじゃないでしょうか。
「本来ならさらけ出したりしない男の情けなさを隠さないかっこよさってのは男同士にしかわからないよねー、普通は「かっこ悪い」って言われちゃうもんねー」ってところですかね。

なので、当時中学生の私も、「勝手にしやがれ」は「かっこいい男の歌だ」と思って聴いてはいたんですが、歌詞の内容に関しては「かっこいいわあ〜ぽわわ~ん」てのとは違って、「かっこいい大人の男ってのはめんどくさいもんだな」ぐらいの認識だったように思います。
ひねくれててすみません。



案の定、超絶長くなっちゃったので、
今回は3回に分けます。
《その2》に続く〜


ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


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「その1」で延々と語ったように、
「さよならをいう気もない」の歌詞は、
阿久悠氏の作詞技巧がさまざまに凝らされた
秀逸な一品と言えますが、
しかし、そこに描かれているのは、
やっぱり男に超絶都合のいい女性像。
「ハイヒール」「詩人」「ミュージカル」という、
おっさん演歌にはまず出てこない
単語を入れ込むことで、
都会的でシャレオツーな雰囲気に
なってはいるんですが、
演歌でなくとも、昭和なムード歌謡だったら
こういう歌詞もありそうな気がします。
やっぱりタキシードや
ビシっとしたスーツの
おっさんが眉間に皺寄せて、
もしくは妙に甘ったるい低音で
ムーディに歌うイメージ。
ムード歌謡ですからね。
そして、冒頭で言ったように、
そこにはおっさんたちの
ホモソーシャルな関係がチラチラします。
歌うのもおっさんなら、
それを喜んで聴くのもおっさん。
「こんな女がグッとくるんだよねー」
「ねー」
「こういう男の気持ちは女にはわかんないんだろねー」
「ねー」
「こんな女どっかにいねえかなー」
「なー」
みたいな。

いねえよっ!

こんな、現実にはいそうもない夢の女と
身勝手な男が出てくる歌謡曲が、
当時は確かに売れまくっていましたが、
しかし、これを歌うことになったジュリーは、
こういう男たちのホモソーシャルな世界から
一番遠いキャラクターとして存在していました。

男同士の連帯というのは、
現実の女をディスりつつも、
女たちは全員自分を愛してくれないといけない、
という意識を持っていることが
暗黙の了解になっています。
そして、現実にはそんなことはないわけですから、
それを男同士で嘆くとか、
言葉に出さなくとも目配せでわかり合う、とか。
ところが、
ジュリーはまず、その美貌によって
世の中の普通の男たちとは一線を画してますし、
ザ・タイガースでデビューしたときから
世の中の女の子たちから絶大な愛を寄せられ、
そして歌うのは、
ひとりの女をとことん愛し続け、
またその女からも愛されている男の歌。
ジュリーに限らずそんな男は、
男同士のホモソーシャルな関係の中には入れません。
「あー、あいつはモテるからね」
「イケメンはいいよなー」
「彼女だけに愛を捧げるとか、よくやるよ」
とかとか、
なにかと仲間はずれにされます。
「ああ見えて男らしいんだぜ」とか
「結構いいやつだよ」と
受け入れられることもありますが、
それは「ああ見えて」という注釈付き、
及び「俺は認めている」という上から目線です。

中の人=沢田研二はどうなのかわかりませんが、
世間一般にはそんなキャラクターとして
認識されていたジュリーですので、
男にしかわからない夢の女を描いた歌詞、
それも女歌を、そのまま男として歌っても、
男たちからの「わかるわかるー」という
共感は得られませんし、
それまでのファンである女性たちにも
「男に傷つけられた(らしい)女の気持ちを
 歌うなんてジュリーっぽくない」
と、戸惑われてしまうでしょう。

そこで、ジュリーが編み出した変化球が、
あの「金キャミ」だったんじゃないでしょうか。

ジュリーは
「女性が着るタンクトップというか、
 下着みたいなのを着て、イヤリング付けて……」
とか言っていましたが、
あれはひとくちに「女装」とは言えません。

ジュリーは、
男性にしては骨格が華奢で肩幅も狭いので、
かわいらしいデザインのブラウスなんかを着ると、
胸のない女の子のように見えることもありますが
(「悪魔のようなあいつ」の良ちゃんとかね)
金キャミだと、
どう見てもやっぱり男の、
ごつい首と肩のラインが露出します。
しかも、あの金キャミが女性の服装かというと、
それも違うんではないかなーという気もするんですよ。
だって、あんな格好した女の人、見たことある?
私はありません。
ボトムがパンツではなくロングスカートだったら、
外国のセレブのパーティドレスとか?
日本では叶姉妹ぐらいか?
でも、スカートではなくパンツスーツですし、
女性っぽいメイクをしているわけでも、
歌詞にも出てくるようなハイヒールを
履いているわけでもなく、
単純な「女装」とは違うように見えます。
かと言って、男性であんな服を着る人はいない……。

「金キャミ」を着て歌っているジュリーは、
「ベソをかく」ではしょんぼりした仕草をし、
ハイヒールを両手に下げたり、
「歌えない 踊れない」と肩をすくめたりと、
歌詞の中の「私」になりきっているように見えますが、
女のふりをしている、
というのとも違う気もします。
あれは、「女」でも「男」でも、
「ジュリー」でさえなく、
「さよならをいう気もない」という
歌そのものを体現した姿なんじゃないでしょうか。

当時の歌謡曲というものは、
歌っている歌手自身に
イメージを託している部分が大きくて、
男の歌手ならばその歌っている内容は男の立場、
女ならば女の立場、若ければ若者の立場で
歌っているものだと、
聴くほうは了解していたと思います。
性別年齢だけではなく、
その歌手の見た目や生い立ちまで含めた全体で、
聴き手へ届けるものだったんですね。
ジュリーもそれまでは、
「綺麗な顔をした」
「若い」
「女性に人気の」
「男」
という属性を活かした歌を歌ってきたわけですが、
上で書いたように、
今回の歌謡曲的=演歌的な
「さよならをいう気もない」は、
その属性のままで歌うと、
歌詞の背景にチラチラする
男に都合がいい女性像とか、
演歌的な既存のイメージとうまく噛み合わず、
ちぐはぐなことになりかねない。
ならばということで、この「金キャミ」は、
ジュリーが歌う「さよならをいう気もない」
テレビを通じて見せる、というのではなく、
歌っている「ジュリー」を含めた
テレビの画面全部を
「さよならをいう気もない」という世界に
してしまおうという、
そんな試みだったのかもしれません。

そんな、男とか女とかを超越した、
「性別・ジュリー」としか
言いようのないなにかになったジュリーが歌う
「さよならをいう気もない」は、
演歌やムード歌謡に向けられる
男たちのホモソーシャルな眼差しを吹き飛ばし、
時代も国も違うまるで洋画のワンシーンのような世界を
そこに出現させました。
それは、
聴く人の生活や実体験とは切り離されていますから、
ハイヒールのかかとを折って泣いていたり、
裸足で歩き出したりする女は、
身のまわりの男どもが「げっへっへ…」と
都合よく妄想するような
シチュエーションに置かれているのではなく、
女性も憧れることのできる
素敵な恋愛関係の中にいるんだと思いつつ
聴くことができるのです。

とはいえ、
いきなりあんな格好で歌い出された日にゃあ
(「夜のヒットスタジオ」の初披露では、
 最初は上着を着ていて歌う直前に脱いで
 キャミになります)
その「それどーなってんの!?」ってな衣装やら、
ジュリーの鎖骨やら胸の谷間やら、
金色のパンツに包まれたプリケツやら、
はたまた曲の途中でハラリと落ちる肩紐やらに
目を奪われて、
歌詞の内容なんざ
誰も聴いちゃいなかったんじゃないかと思われます(笑)。

残念ながら私はリアルタイムでの「金キャミ」のことは
記憶にないんですが、
ジュリーに堕ちた初めのころ、
「夜のヒットスタジオ」の画像や動画を
ネットで見つけて、
「な、ん、じゃ、、こりゃあ〜〜〜!!!」
と、PCの前で実際に声を上げました(笑)。
破壊力バツグンです。
もしかしてあれは、
いくら売るためとは言え、
あまりにも歌謡曲的(演歌的?)な歌詞から
目をそらさせるための、
ジュリーと衣装担当の早川タケジさんや、
加瀬邦彦さんたちの作戦だったのかもしれません。
だとしたら、その作戦は大成功ですよね。
変化球&豪速球って感じでしょうか。
あれを冷静に受け止められる人は、
ファンも含めて少なかったんじゃないかと思います。

ジュリーは、
1976年5月に起こした暴行事件のあと、
自主的に1ヶ月の謹慎をし、
その年は紅白歌合戦も賞レースも
すべて辞退しているので、
1977年は心機一転、再出発!って気持ちで
臨んだ新年だったんじゃないかと思います。
「新聞にああいう事件が出てしまったら、
 もうこれ以上の恥ずかしいことはない、
 親戚にも迷惑かけて。
 だから仕事でもってやることは、
 多少の恥をかいたって、
 あれに比べれば大したことはない」
(「我が名はジュリー」より)
と言っていて、
「もう怖いものはなにもない!」
と開き直ったジュリーは、
それまで誰もやらなかったことをやってやれ!
「派手であればいい、人目を引けばいい」
(「我が名はジュリー」より)
と思っての、
金色のキャミソールを着ての登場だったようです。

レコードの売り上げを伸ばすための
歌謡曲路線という会社側の思惑とは、
たぶん全然違う方向に突っ走った
ジュリーなわけですが、
新しい試みをなんでもやってみようという
雰囲気のあった当時の元気なテレビ界で、
そんな姿勢は好意的に受け入れられ
(ジュリーだったからってのもありそうですが…)
テレビ局側にもおもしろがって
サポートしようとする人が現れて、
従来の歌謡曲の見せ方とは
全然違うジュリーの世界がブレイクし、
次の「勝手にしやがれ」からの快進撃が始まるわけです。



というわけで表の解釈はここまで。
お次は【裏解釈】です。




【続きを読む】



ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


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前回のエントリで、
阿久悠氏の歌詞に描かれる男と、
その男が夢想する女性像について、
長々と毒づいた私ですが、
その第一曲目の「さよならをいう気もない」
いきなりの変化球で、どーしましょう……。
このときのジュリーの衣装、
言わずと知れた「金キャミ」も相当な変化球なんですが、
それについてはあとに語るとして、まずは歌詞です。

この曲は、ジュリーのシングル曲の中で唯一の女歌。
女の一人称の歌詞なんですよ。

演歌にはよくありますよね。
タキシードに蝶ネクタイのおっさんが、
一人称「わたし」で「あなた」への愛を
ねっとりと歌い上げる、みたいな。
「女のみち」とか「なみだの操」とか
「よせばいいのに」とかとか……。
だいたいにおいて女の愛は男には届かず、
女は「私が馬鹿だったのね…」なんつって嘆きつつ、
ひとり日本海方面に旅立つとか、
もしくは
「日陰の女だけどあなたに付いていきたいのよ〜」とか。
そんなひどい男の歌をチョビ髭のおっさんが歌うって、
一体どういう文化なんでしょうか。
そして、70年代には
それがどれもこれも大ヒットしたんですよ。

なんで?

結論から言ってしまうとそれは、
世の中のおっさんたちがこういう歌を喜んで聴いていたから、
じゃないでしょうか。
演歌やムード歌謡に出てくる
耐える女、健気な女というのは、
どうもカタギの奥様ではないイメージです。
たぶん水商売方面の人。
そして、相手の男とは婚姻関係ではなく、愛人関係。
実際にそういう関係の男女が
どのぐらいいたのかはわかりませんが、
当時のおっさんたちにとっては、
「お妾さんを囲う」ってのは、
「男の甲斐性」なんつって、
ある種のステータスでもありました。
お妾さんを囲うまではいかなくても、
女遊びをしない男は一人前じゃない、とか言われたり。
そんな時代ですよ。

相手の女性たちにしてみれば、
若くてきれいなうちにお金持ちの旦那を捕まえて
「お妾さん」(愛人)に収まることができれば
生活は安定しますし、
資金を出してもらって自分のお店を持てたりすれば
将来的にもまあまあ安心。
女性がひとりで生きていくことが難しかった
70年代以前の、特に水商売の女性にとっては、
それもひとつの道、生きる方法だったんですよね。
そういう意味では、
ウインウインつうか、
需要と供給のバランスが取れてるっつうか、
そんな関係ではあるのかなと思われます。

しかし、そこに「愛情」というものを
持ち込みたくなるのが、男女の仲。
というか、男の夢?
女性は自分の生活のため、将来のためと
割り切っていた人が多かったんじゃないかと思いますが、
男性のほうは、金で買った「お妾さん」であるとはいえ、
あわよくばそこに愛情も存在していてほしい。
夢であるからこそ、
もし自分が愛人を持つことができたら、
金ではなく自分自身を愛してほしい。
さらに、自分は家庭を壊すわけにはいかないから、
愛人以上の立場は望まないでほしい。
んでもって、
自分の気持ちが冷めたり、
面倒を見続けることができない事情が持ち上がったら、
それとなく察して姿を消してほしい。
もちろん自分のことを愛したままで。

そんな超絶都合のいい男の願望に応えるべく
量産されたのが、
蝶ネクタイのおっさんがねっとり歌う、
女の一人称の演歌やムード歌謡の
数々だったんではないでしょうか。
女性の演歌歌手も同じような内容の歌を歌っていて、
それはそれで需要があったんでしょうが、
そういう(夢の)女の気持ちを
おっさんが歌うことによって、
おっさん同士が「わかるわかる〜」という
ホモソーシャルな共感が
そこには生まれていたような気がします。

キモチワルイですね。

しかしまー、そういうわけで、
おっさんたちは健気で薄幸そうな女が出てくる歌に喜び、
そしてそれを歌う演歌歌手を応援しました。
そこそこお金を持ったおっさんが
どうやって芸能人を応援するかといえば、やっぱ金。
後援会やプロモーションのためのお金を出してやって、
その見返りに自分の個人的なパーティで歌わせるとか。
それをステータスにするためには、
その歌手が有名であることが必要でしたから、
そのためにますますお金を使う……
という、悪循環ならぬ好循環?
そこまではっきりとパトロンにならなくとも、
大人が聴く音楽はロックやポップスではなく、演歌!
と思われていて
(ジュリーもある程度の年になったら演歌を歌わないと、
 と言われていたとか…)
ある年齢以上の人たちは
ほぼみんな演歌を聴くのがあたりまえ
という時代でもありました。
ベストテンや夜のヒットスタジオなどの歌番組にも
必ず演歌歌手が何人か出ていましたし、
NHKの紅白歌合戦のトリは演歌と決まっていましたよね。
その決まりを覆して、
ポップスで初めての紅白大トリを務めたのが、
ジュリーなんですよ!
(は〜、やっとジュリーにつながった)

ジュリーが紅白の大トリで
「LOVE(抱きしめたい)」を歌ったのは1978年。
「さよならをいう気もない」は1977年2月のリリースですから、
このたったの2年弱の間に、
演歌だけではなくポップスも売れる、
一等賞になることができるというふうに、
ジュリーは歌謡界の流れを変えたんですね。

とはいえ、77年初めの時点でのジュリーは、
前年に起こした暴行事件のせいで
ちょいとマイナスの位置にいました。
少なくともジュリー自身はそう思っていたんでしょう。
今から思えば
「そんな大したことじゃないでしょ」
という感じでもありますが、
当時は大騒ぎだったようですし、
いまだにネタにして言うぐらい
(こないだのお正月ライブの
 MCでも言ってましたね)
本人にとっては大きなできごとだったんだと思います。
そんな状況下で、
レコードの発売元である会社のほうからは、
もっと枚数を売らないといけないから
それには歌謡曲の詞がいいと言われ、
そのための阿久悠氏の起用だったと、
2008年のラジオで
ジュリーが当時のことを語っていました。

余談ですが、そのときに、
「ということは、阿久悠さんは
 歌謡曲の詞なのか?と思った」
とジュリーは言っていたんですけど、
歌謡曲じゃなかったら、
じゃあなんだと思ってたんでしょうか?
ジュリーには、ちょいちょいこういう、
「そこんとこクワシク!」
と叫びたくなるような発言があるんですが、
こういうことをきちんとインタビューして
まとめようという媒体はないんでしょうか。
ジュリーの生い立ちや芸歴よりも、
ジュリーが芸能生活50年の間に見聞きし体験してきた、
当時の芸能界、歌謡界の
歴史っていうか雰囲気っていうかね、
そういうのが知りたいんですよ。
今とは違う慣習やその時代だったからこその
いいことや悪いことや、
それらが50年の間にどう変化してきたか…。
ずーっとその中で活動してきて、
ものすごく売れたスーパースターな時代も
売れない時代も経験し、
さまざまなミュージシャンやスタッフとも
関わってきたジュリーの話なら、
絶対におもしろいと思うんですが、
どうですかね? 誰か!

それはともかく、
じゃあそれまでのジュリーの曲は
歌謡曲じゃなかったのか?
という疑問が生まれますが、
当時の歌謡界で一番に売れていたのが、
上記で語ったような演歌だったとすれば、
ひたすら女の子たちをぽわわ~んとさせるような
甘々な歌詞よりも、
もっと大人な男女のドロドロを描いた
演歌っぽい内容のほうが歌謡曲的とされ、
そして、当時はそのほうが売れると
思われていたのかもしれません。
少女漫画の世界から
青年漫画の世界へって感じでしょうか。
そういえば、
「時の過ぎゆくままに」が挿入歌として使われた
ドラマ「悪魔のようなあいつ」の原作漫画は、
上村一夫さんという、
主に青年コミック誌で描いていた漫画家さんの作ですよね。

なので、
ジュリーのために書かれた阿久悠氏の歌詞の中の女も、
それまでのように
親や世間に阻まれて
愛し合っている男の元にとどまることができずに悩む、
というのではなく、
その相手の男の態度や愛情の有無によって
悩まされています。
それまでが「世間vsふたり」だったとすれば、
「男vs女」ってことですね。

「さよならをいう気もない」には、
男の側の言動も気持ちも一切描かれていないので、
どういう状況なのかはわかりませんが、
「悲しい手さぐり」「孤独に気がついて」
と言っているということは、
どうも相手の男とは心が通じ合わなくなってしまい、
「私たちの間ももう終わりなのね…」と、
語り手の「私」は悲しんでいるっぽいです。
「この場所へはとまれない いたくない」
とも言ってますから、
「私」は男の元から立ち去ろうとしているところですよね。
全体的な内容としては、
演歌のひとり旅立つ女と同じ感じです。
男の心変わりを察して、そっと姿を消す女。
男ってのは本当に、
自分のことを愛したままで、
悲しみつつ立ち去る女ってのが好きなんですね(ちっ!

とはいえ、
この歌詞には
「私は私はあなたから旅立ちます」も
「さよならあなた 私は帰ります」もなく、
暗喩、比喩などのレトリックを使いまくって
そういう雰囲気を醸し出していて、
そのために、おっさん演歌の
ねっとり成分は最小限に抑えられています。
そこは天下の阿久悠氏。
本当にうまいなあと思いますし、さすがでございます!
とひれ伏すしかありません。

まず、いきなりの「ハイヒール」。
これで、この歌の語り手は女ですよ、
ということを示しています。
ジュリーはこれまでのシングル曲で
女性の一人称の曲は歌ったことがありませんし、
世間一般には、ジュリーは女性に対する男性、
それも女性をとことん愛しぬく男、
というイメージが強かったんじゃないかと思います。
ザ・タイガースの時代から
ずっとそんな歌ばっかり歌ってますしね。
そんなジュリーがあえて女歌を歌うんですよ、
ということを歌詞の最初でババン!と宣言し、
「あら、今回は女の一人称なのね」
と聴き手にわからせて、
まずはツカミはオッケーというわけですね。
ジュリーに歌謡曲的な歌詞をと言われて
(かどうかはわかりませんが)
いきなりの女歌とは、
阿久悠氏、冒険ですよねえ……。

そんでもって、
その女のハイヒールは「かかとが折れて歩けない」。
ツーコーラス目の
「ハイヒールを両手に下げて歩き出す」
と考え合わせると、
この「ハイヒール」は、
「私」の幸せな恋愛関係の象徴なんじゃないでしょうか。
かかとは両方が同時に折れることは
まずありませんから、
おそらく片方だけが折れたんでしょう。
そこに、男女の気持ちに差ができてしまった
ということを暗示し、
そのために「この先へは進めない」
と言っているわけです。
そんなふうになってしまった「私」は
「ついてない 運がない」。
ということは、
「私」のほうがなにかしたことで
男とうまくいかなくなったのではなく、
おそらくは男の側の
なんらかの事情か心変わりによって、
関係が続けられなくなってしまったんですね。
自分ではどうしようもないことなんだということを
「ついてない 運がない」
という言い方で表しているんだと思います。

で、ツーコーラス目の
「両手に下げて」ということは、
その壊れた関係を持ったまま、
まさに男を愛したままで、でも
「この場所へはとまれない いたくない」と
「歩き出す」わけです。
なんで「この場所へはとまれない」かといえば、
「私」は「歌えない 踊れない」から。
要するに、男をつなぎとめ、
またこちらへ心を向けさせるような、
魅力も条件も「私」にはないんです。
どうしようもない。
そして、ワンコーラス目では
「ベソをかく」と泣いていたのが、
「おかしくて」と自嘲ぎみに笑っているようです。
男にしてみれば、
いつまでも泣いていられるよりは、
自嘲だろうがなんだろうが、
笑って去っていってくれたほうが、
心の負担は軽くすむってもんじゃないですか。
そしてサビの部分の「いつも」「みんな」。
世間の男と女はこんなもんだよね、と
いきなり一般論になり、
「俺悪くないもーん」
「男と女のことなんだからしょうがないじゃーん」
という、男の言い訳が
行間から滲み出ている気がするのは
考えすぎでしょうか。
まー、この歌詞解釈自体が
すでに考えすぎな感じなので、
今さらですがね。

そんでもって、タイトルでもある
「さよならをいう気もない」ですが、
これは「さよならを言わない=別れない」ではなく、
「自分から別れを告げることはできない
 →でも姿は消すわ」
という意味ですよね。
おそらく男のほうからも
はっきり別れを告げられているのではないのでしょう。
でも、「心のやすらぎ」を「求め合う」のは
「悲しい手さぐりで」だし、
心が通じてない「孤独に気がついて」しまったからには、
もう「不幸を忘れて」=知らん顔して
関係を続けていくことはできないと、
「私」は判断したんでしょう。
そんな男、別れろ別れろすぐ別れろ〜!
ってなもんですが、
ま〜、どんな形であったにせよ、
一度は恋愛関係にあった相手と
自分から別れようと決意するのは、
なかなかつらいものがありますもんね。
人間、現状維持が一番ラクですから。

で、ですね、
この「さよならをいう気もない」の直前の、
「季節を見送る詩人のように」という、
こそばゆくもかっちょいいフレーズですが、
私はずっと
「さよならをいう気もない」までに
かかっているんだと思っていたんですよ。
言葉を操ることに長けている詩人は、
悲し過ぎるときには
「さよなら」なんて
ありきたりなことを言ったりはしないものだから、
「私」も同じように
「さよならをいう気もない」んだよ、
ということなのかなと。
しかし、そう考えると、
「詩人」が「季節を見送る」ことと
「私」が男と別れなければいけない悲しさが同じ、
ということになってしまって、
え? そんなもん? ってなってしまいます。
まー、
男と別れるなんて季節が変わる程度のことなのよ〜、
という自嘲とすることもできますが、
ここはやっぱり、
「詩人のように」が修飾しているのは
「さよならをいう」までとするのが
正しいのではないかなと思い直しました。
詩人は移り変わる季節にも、
人間に言うように
「さよなら」と言葉をかけて見送るけれど、
「私」は「悲し過ぎて」それもできない。
だって、季節はまた巡ってくるけれども、
「私」を愛してくれたあの人は
もう帰ってはこないから……
としたほうが、悲しさ倍増じゃないですか。

と、こんなふうに、
「さよならをいう気もない」は、
さまざまな言葉たちから連想される
イメージを繋ぎ合わせていくことによって、
恋人と別れようとしている女の状況を、
「さよならをいう気もない」という
真逆の意味のフレーズで表現した歌詞と言えます。
その言葉の積み上げ方は、さすが阿久悠氏。
お見事としか言えません。


…と、超長くなっちまったので、
ここで一旦切ります。
「金キャミ」については後半で。