《稀人舎》の5月7日の文学フリマ東京でのもうひとつの新刊本、
今日、著者ほか2名が手伝ってくださり、
製本作業いたしました。楽しかったっす。

【ベルリン、記憶の卵たち(2)FRÜHLING】

記憶の卵たち2_表紙

記憶の卵たち2_目次

記憶の卵たち2_P14-15

記憶の卵たち2_P20-21

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文学フリマのWebカタログはこちら


【ベルリン、記憶の卵たち(1)WINTER】の第二弾。
今度は「春」です。
前号の本当に寒そうな写真や文章から、
春へと季節が変わり、
さまざまな色が溢れるエッセイと写真です。

《稀人舎》ブース「オ-57〜58」
お待ちしております。


いやその……
「再始動」とかいうほどのことではないんですが、
2ヶ月近くもブログ更新もせずに
なにしてたかというとですね、
私の仕事場=《稀人舎》事務所を
引っ越ししとりました。
いろんな事情がありまして急な話だったので
3月はちょっと大変で、
4月は抜け殻になっておりました。

今までの仕事場でもあった自宅から歩いて通える場所ですが、
小さいマンションの1室を借りて、
自宅の和室にちゃぶ台……とかよりは
事務所っぽくなったかなと思います。
なので、ここで、
これまでやってきたデザイン仕事やら本作りやら、
今年の年頭に思い描いていたワークショップやらを
やりたいなあと夢見ております。
てか、家賃分を稼がないといけないので、
がんばります。
がんばると言ってもお仕事がないことには
がんばりようもないので、
デザインでも本作りでも編集仕事でも、
なんでもやりますので、
どうぞよろしくお願いいたします。


で、まだまだ抜け殻状態なんですが、
5月7日の文学フリマ東京が近付いて参りまして、
その準備はしないといけないのでね。

てかさー、
3月4月にこんな状態になることがわかってたら、
たぶん文学フリマの参加申し込みとかしなかったと思うんですよ。
でも、申し込みの2月の時点ではこんなことになるとは
全然まったく予想だにせず、
いつものようにサークル参加の申し込みをし、
「稀人舎通信改の号外作るよー」と原稿依頼をし、
その原稿の締め切りを3月末だよーと連絡し……
そんなあれこれの手続きやら連絡やらを
すでにしてしまっていたので、
本は作らないわけにはいかない。
だってさ、
書いてくれることを快諾してくださったみんなに、
「やっぱ今回はやめた」
とかって言えないじゃん。
「作る」と言ったものは作るよ、私は。

というわけで、
【稀人舎通信改・号外】
出ます。

号外・表紙

号外・palette

号外・双花町

号外・文章

※クリックで拡大表示します。

《稀人舎》で作った手作り本が結構いっぱいになったので、
それらの本を紹介するカタログ的な本です。
見開き2ページで1冊の本を紹介してます。
各著者にもコメントを書いてもらってます。
なんで手作り本を《稀人舎》に依頼しようと思ったか、
作ってみてどうだったか、
今後はどういうことをしたいか……などなど。
この原稿を依頼してしまっていたせいで、
この本は作らざるをえなくなったわけですが、
でも、作ってよかったと思います。
これがなかったら4月は乗り切れなかったかもしれない。
精神的に。まー、いろいろと…。

他に、私がここのブログやFacebookに書いた文章も再掲。
【双花町についてあなたが知り得るいくつかのことがら】
がらみですが、
紙の本を作るということ、
デザインするということ、
とか、いろいろ考えたことなので、
読んでいただけたら嬉しいです。

本文40ページ、オールカラー
これ自体も手作り本(これから作ります)
500円

5月7日、東京流通センターで開催される
第二十四回文学フリマ東京

Fホール(2F)のオ-57〜58

でお待ちしております。
Webカタログはこちら


当日は、私の他に、
そらしといろさん、川口晴美さん、サトミセキさんたちが
店番に来てくれる予定です。

販売アイテムは、
上記の【稀人舎通信改・号外】の他に、

【稀人舎通信】の既刊本【6号】【7号】【8号】【改2号】

そらしといろさんの
【palette】(特別価格300円!)
【二人になるまで一人旅】
詩集【暁を踏み割ってゆく】【フラット】
【長野まゆみと詩人たち】カタログ
【草々vol.1】(無料配布)
【アニポエvol.5】(無料配布)

サトミセキさんの新刊
【ベルリン、記憶の卵たち(2)】
既刊の
【ベルリン、記憶の卵たち(1)WINTER】も。

サトミセキさんの新刊は、
詳細わかり次第告知します。


そんなこんなで
3月4月は鳴りを潜めていた《稀人舎》ですが、
5月の文学フリマで「再始動」としたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。


ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。

カテゴリは【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。




「君をのせて」から「コバルトの季節の中で」までの
17曲の解説を載せた
「ジュリーのシングル曲でたどる昭和女のイバラ道1971~1976」は、
電子書籍のKindleで販売中です。



Kindle本は、Amazonで売ってる専用の端末がないと
読めないと思っている方がいらっしゃるようですが、
Amazonが無料で提供しているアプリを入れれば、
今お使いのスマホ、タブレット、PC(Macでも)、
どれでも読むことができます。
よろしくお願いします!




《その2》からの続きです。

と、ここまで、百恵ちゃんの「プレイバックPart2」まで巻き込んで、「勝手にしやがれ」の歌詞をディスりまくったわけですが(この世界が大好きという方には大変申し訳ありませんでした)、この、女の敵のような男の歌をジュリーはどういうふうに歌ったかというと、にこにこしながら、ひたすら陽気に、両手を上げて妙な踊り(すまんジュリー)まで付けて歌ったんですよ。スーツを着た大人の男が両手上げて踊るとか、普通はやりません。超ふざけてます。これは、「ワンマンショーで」「朝までふざけ」ている男ということですよね。

「週刊現代」の鼎談で木崎氏は「実は『危険なふたり』のときのようなフニャフニャした歌い方をするのではないかと不安だったんです。(中略)ところが出だしの「壁ぎわに寝がえりうって〜」からビシッと男らしく歌ってくれたので、びっくりしました」と言ってるんですが、「男らしく」? 「ビシッと」???
いやいやいや、あれは充分「フニャフニャ」でしょうよと思うんですが、ここでもまた、男たちと私の受け取り方は違っているようです。まあ、「危険なふたり」のような甘さはないですから、それを「フニャフニャ」と言ったのかもしれませんが、「ビシッと男らしく」というのとは違うような気がします。
私は、「「阿久悠氏時代」の概要のような…」のエントリの中で、ジュリーは「かっこ悪い男がかっこいいと思っている男はかっこ悪いということをわかっているかっこいい男」(ややこしくてすみません)を演じようとしたんじゃないかと書いたんですが、この「勝手にしやがれ」を「ビシッと男らしく」歌ってしまったら、単に「かっこ悪い(ところを隠さない)男はかっこいいと思っている男」じゃないですか。歌詞の中の「カッコつけさせてくれ」って言っている姿そのまんまですよね。言葉で「カッコつけさせてくれ」って言ってる時点でそれはもうかっこ悪いわけですから、それをそのまま歌ったら恥ずかしすぎる。
というわけでの、にこにこ(ニヤニヤ?)笑いながら、無理にでも陽気にふざけている男として、ジュリーは歌ったんじゃないでしょうか。
なので、木崎氏が「ビシッと男らしく」と感じたとすれば、それは「迷いなく」ということじゃないかと思います。「俺って情けないな〜」という歌い方で情けなさを表現するのではなく、「俺、こんなに情けないんだぜ。ドヤァ!」って感じですかね。そういうふうに歌うことで、下手をすれば演歌的にじめっとなりそうな世界をポップに表現できたんじゃないかと思います。
まー、大野克夫さん作曲のゴキゲンなピアノフレーズから始まるアップテンポな曲調だし、むしろそう歌うしかなかったんじゃないかと思うんですが、そういうことってプロデューサーとは歌う前に打ち合わせしたりしなかったんでしょうか。
「勝手にしやがれ」のレコーディングは、ジュリーがグアムから帰ってきてすぐ、しかも風邪気味だというのに行われたものということで、当時の過酷なハードスケジュールが垣間見えますが、もしかしてグアムからの移動中に、作曲の大野さんとは打ち合わせしていたのかもしれませんね。

木崎氏は「(「ワンマンショーで〜」というフレーズは)「さすがにこれはジュリーも恥ずかしいだろう」と勝手に思っていたのですが、すごくうまく歌ってくれた。」と言っていますが、これもまた「??」です。逆に「朝までふざけようワンマンショーで」というフレーズは、この歌詞全体の中で唯一の恥ずかしくないところじゃないですか? 他の部分は全部恥ずかしい。最後にこのフレーズがあるおかげで「勝手にしやがれ」は救われていると言ってもいい。これだけは最後に「ビシッと」決めることで、ジュリーはこの曲を「なにもかもわかっているかっこいい男」として歌うことができたんだと思うんですよ。
それまでは、上から目線だったり、しょーもない言い訳をしたりしていたのが、ひとり(ワンマンショー)になっても、女がいたときと同じように「朝までふざけよう」ってことは、自分が「ふざけて困らせた」ことをちゃんとこの男はわかっているんです。そして、それは女に対してだけふざけていたのではなく、こういう生き方しかできない男なんだと言っているわけですね。
まー、清々しいほどのクズ男ですわね。そこまでやられたら、女のほうは「あ〜、もうあんたはそのまま死ぬまでふざけてれば? 付き合いきれないけど」と苦笑いしつつ出て行くしかないですよ。
恋愛関係においては、ふたりの人間の感情のやりとりの結果、お互いが満足できるようにどっちも変化していくのが理想だと思いますが、この男は「俺は変わらないぜ!」とビシッと言い切っているんですよ。もうどうしようもないです。
最大限好意的に解釈すれば、出て行く女が未練を残さないようにという優しさでもある。そりゃもう、晴れ晴れとかっこよくドヤ顔で歌うしかないでしょう。

木崎氏はなんでこれを「恥ずかしい」と思ったのか。そこまで開き直るのは恥ずかしい、とか? いやいやいや、ここでヘタに悲しい心情とかを吐露されたら、もうほんとに演歌の世界になっちゃうじゃないですか。阿久悠氏が言うように「ワンマンショーを〝気取る〟」というところがカッコつけすぎ? それも、上で言ったようにここは気取ってなんぼなシーンなので、恥ずかしがってる場合じゃないです。
もしかして「ワンマンショー」が、歌手であるジュリー本人と直結する言葉であるために、「さすがにこれはジュリーも恥ずかしいだろう」と思ったのかもしれません。しかしね、これをジュリーが最後にかっこよく決めることで、聴いているほうは、それまでのなんだかダメーな情けない男の話から離れて、「あ、これはジュリーのワンマンショーなんだね!」と、「歌手ジュリー」が目に入る仕掛けになっているんです。
いわばダブルミーニング。
これはアレですよ。バンドのライブで「今夜は朝まで帰さないぜ」って客に向かって歌うやつ。歌詞の中では相手の女への口説き文句ですが、それを客席に向けて歌うことで「今夜は朝まで続けたくなるような最高のライブをやるぜ」「おまえらも帰りたくないよなー、イエー」って煽る、あのパフォーマンスと同じです。
女に出て行かれた男がワンマンショーを気取って朝までふざけているという物語の結末であると同時に、「ジュリーのワンマンショーで朝まで一緒にふざけよう」とお客さん(テレビの視聴者)に呼びかけているんです。

ジュリーはこの時点でデビュー10周年。ライブのプロですからね。客を煽ることのできる、こんなおいしいフレーズを恥ずかしがるはずないじゃないですか。最後にカメラ目線で手のフリ付きで「ワンマンショーで〜」と決めることで、たった1曲を何時間ものワンマンショーを観たように感じさせ、実際にジュリーのライブに行ったことのある人なら、そのステージでのジュリーのあれやこれやを思い出してぽわわ~んとなるって寸法ですよ。
そして、実際にライブでもこれを歌うんですよ。「ワンマンショーで〜」って、まさにワンマンショーで。しかも、「あ〜あ〜〜」と、ジュリーと一緒に壁塗り(と言われている両手を上げてゆらゆらするフリ)もできる。これが、実際やるとすごく楽しいんですよ。
本当によくできた歌詞です。そして、それを恥ずかしがったりせず、即座に自分に引き付けて歌ったジュリーの素晴らしさったらありません。

さらにジュリーのあの衣装と帽子投げ。
中学生のころの私は、正直あの衣装はあんまり好きではありませんでした。あの衣装のせいもあって、ジュリーがおっさんに見えたところもあると思います。だって、以前はヒラヒラフワフワした女の子が着てもいいような服にチャラチャラアクセサリー付けまくって、髪ももっと長かったんですよ。いわば若者の格好でした。それに比べて、いくらクリーム色とはいえ、形は正統派なスリーピースだし、ネクタイまで締めている。ジュリーも他のおっさん歌手たちと同じようにちゃんとした格好をするようになっちゃったのか……色は派手だけど、まあ、そこはジュリーだからね、とか思っていたように記憶しています。
いやほんと、すみません。
あの格好をジュリーは、ホストクラブのホストの格好だったんだと言っていました。そして、当時ホストというのは差別用語のようなもので、あえてそういう格好をすることで、きわどいところを狙ったんだと。たぶん、当時は女の(それもあんまり上等でないとされていた)職業であるホステスの男判ということで、ホストというのは普通の男よりも下に見られていたということじゃないかと思います。
「勝手にしやがれ」を歌うにあたって、男の中でも差別されている存在であるホストの格好をすることによって、女に対する超上から目線のこの歌を、なんとか女性の共感も得られるものにできないかと模索した結果がホストだったということでしょうか。女の側に寄り添うことができるのは、男の中でも差別されている男だけですからね。
まー、単に「ジュリーがホスト!? きゃ〜〜〜!」というウケを狙っただけかもしれませんが、しかし、あれがホストの格好だとわかった人って、当時どれぐらいいたんでしょうか。田舎の中学生だった私は全然わかりませんでしたよ。上に書いたように、むしろ「ちゃんとした格好だ」と思ったぐらいです。残念!
たぶん、都会で夜遊びしている大人の人たち、ジュリーに近い人たちの間ではすぐにわかったんでしょう。いわば業界人向け? 「お、ジュリー、ホストになっちゃったのか〜」「俺にもサービスしてくれよ」なんつって、業界のおっさんたちも大喜び、とかね。すごくありそうだ……。レコード大賞の審査員は業界の偉い人たちなわけですし、そこにアピールできたとすれば、それはそれで成功だったのかもしれません。

そして、ジュリーと言えばこれ!といまだに言われる帽子投げ。これはもう、子供みんなが真似したぐらい大成功のパフォーマンスだったわけですが、これも「さよならをいう気もない」の金キャミと同じように、じっくり聞くとイラッとする歌詞から目を(耳を?)逸らさせるために非常に有効でした。
事実、歌詞の内容をよくよく考えるとなんだかイラつくわーと中学生のときから思っていた私も、テレビにジュリーが出て「勝手にしやがれ」を歌っているときは、「わー、こっち見た!」「いつ帽子投げるのかなー」「投げたー!」「きゃー、指差した!」と、そんなことばかりに気が行って、ちゃんと歌詞なんか聞いちゃいなかったと思います。ていうか、今でも昔のジュリーが「勝手にしやがれ」を歌っている動画を見ていると、そんなふうになってます。
きゃ〜〜〜!
カメラ目線とカメラに向かって帽子を投げるというのは、そういうふうにすればテレビの向こうで観ている人たちは「自分を見てくれた!」「自分に向かって投げた!」と思うんじゃないかと考えたと、ジュリーは言っていました。
大成功ですよ! まんまとその術中にハマった子供がここにいます。
それに、カメラが映す順番を歌う前に聞いておいて、そのとおりにフリをし帽子を投げることをやり始めたら、次第にテレビ局のほうから、ジュリーが歌う前にはどのタイミングで投げるのかと聞いてくるようになったそうで、テレビ局のスタッフにとっても、それはすごくエキサイティングなことだったんじゃないでしょうか。
それまでの歌番組は、歌手が歌っているところをカメラが勝手に映して、勝手にテレビに流す、という形が普通だったのだと思います。歌手に対して、どう歩けとかどっちを向けとかの指示はテレビ局のほうからあったんでしょうが、歌手のほうからテレビの仕組みの中に食い込んできて、自分のパフォーマンスに利用しようとするなんて、ジュリーがたぶん初めてだったでしょう。
「さよならをいう気もない」のところでも書きましたが、そんなジュリーのスタンスは、新しいものを求めていた当時のテレビ界に喜ばれ、その後のいろんな伝説的なパフォーマンスが生まれたんですね。

…と、はあ〜〜、長かったですが、なんとかこの有名曲「勝手にしやがれ」を書き終わりました、かな? なんだか書き足りないような気も、言い過ぎたような気もしますが、こんなに長くめんどくさい文章をここまで読んでくださって、ありがとうございました。

《裏解釈》は、サクッと気軽に読めるお話にしたいと思います。



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