ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


という無謀なことをやっております。
どこまで続くかわかりませんが、
途切れ途切れにでもやっていこうかと思います。

カテゴリは【ジュリーの曲で考える昭和女性幻想】
できれば、最初から順番に読んでいただけると嬉しいです。




「君をのせて」から「コバルトの季節の中で」までの
17曲の解説を載せた
「ジュリーのシングル曲でたどる昭和女のイバラ道1971~1976」は、
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《その1》からの続きです。
男同士だけがわかりあえる世界についてから。

映画「勝手にしやがれ」の最後では、ベルモンド演じるミシェルが死ぬ間際に「まったく最低だ」と言い、それに「今何て(言ったの)?」と聞いた彼女のパトリシアに、警官は「〝あなた〟はまったく最低だと(彼は言った)」と言うんですよ。
この台詞の食い違いで、このラストシーンは謎とされ、さまざまな解釈がされているようですが、いろいろ考えてみるとおもしろいです。
警官は顔が映っていないので、その人の台詞はいわば世間一般の声代表と言ってもいいでしょう。警官が故意に「あなたは」と言い換えたのか、無意識に自分の解釈を加えてしまったのかは問題ではありません。ミシェルの「最低」はなにに対してなのかわからない言い方だったのに、世間の人たちは「愛してくれている男を密告するなんて最低な女だ」と思うに違いない、ということなんですね。パトリシアは、殺人犯として指名手配されているミシェルの居場所を警察に教えるという、一般市民として当然のことをしただけなのに、しかも、事前に刑事からミシェルから連絡があったら知らせるようにと言われていたにも関わらず、そのとおりにしたら「最低な女だ」と責められる。
ここで言う「世間」というのはほぼ男社会のことです。男同士だったら、ミシェルのめちゃくちゃな生き方も理解できる。しかし、女であるパトリシアは理解することができずに、ミシェルを死なせるという最低なことをしたのだ、ということですね。
なんというミソジニー(女性嫌悪とか女性蔑視のこと)
ミシェルと警官は敵対する関係であるはずなのに、男同士であるというだけで理解し合える。犯罪者とそれを取り締まる警察という敵対関係よりも、男と女の分断のほうが大きいと言っているんです。
しかし、その後のパトリシアの「最低って何のこと」という台詞は、「どうして私が最低なの?」という疑問とも、ただ単に「最低」というフランス語を知らなかったので意味を聞いているだけとも取れるんですが(パトリシアはアメリカ人なのでそれまでもミシェルとの会話中ちょいちょいフランス語の言葉の意味を聞いている伏線があります)、なんにしろ、映画としては、ミソジニーな男社会に疑問を投げかける形で終わっていると私は解釈しました。
ミシェルが「最低だ」と言う前にする「しかめっ面」の表情の意味は警官にはわからないはずですし、男同士だというだけで「わかるわかる〜」なんてことはないよってことを示唆しているんじゃないでしょうか。本当にそうだとしたら、1960年にして巨匠ゴダール、その問題提起は素晴しいですね。

が、そんな映画からタイトルを拝借したジュリーの「勝手にしやがれ」は、どうもそのホモソーシャルにがっつり乗っかった世界観のように感じられます。
阿久悠氏は、この歌詞について、「一九七〇年代の男と女の気分がよく出ていると思う。」(「歌謡曲の時代」)と書いていますが、ちょっとちょっとー、男と女を一緒にしないでよーと言いたくなります。
だいたい、この歌詞に出てくる女の様子は、語り手の男の主観でしかありませんからね。
「悪いことばかりじゃないと想い出かき集め」ってのも、別にそんなことは思ってなくて、「なるべく金目のものは持って出なくちゃ」つって、「鞄につめこ」んでるだけかもしれないし、「ふらふら行く」のも、さも女が泣きながら歩いているふうな描写になっていますが、単に荷物が重くてまっすぐ歩けないだけかもしれないし、家を出られた嬉しさで「ふわふわ」歩いていたのかもしれないじゃないですか。
この「想い出かき集め」たり「ふらふら」歩いたりっていうのは、女は男と別れるのがつらいのだけれども、どうしようもなく、悲しみつつも出ていくのだと思いたい男の願望が反映された描写ですよね。すっかりきっぱり自分が嫌われたとは、男は思っていないんです。
そんな、まだ自分のことを愛しているはずの女ですから、支配権所有権を行使してもいいというわけで、「行ったきりならしあわせになるがいい」と上から目線で言ってますが、余計なお世話です。もう、こんな男と別れられることだけですでに幸せになってるよ!と言いたくなりませんか? なりますよねっ! きーーー!

「週刊現代」の鼎談の中で、マネージャーの森本氏が、娘さんの結婚披露宴で「勝手にしやがれ」を歌ったことを「不謹慎だ、と思うでしょう。でも、父が娘を送り出す歌にすると、ドンピシャにはまったんだよね(笑)。」と言っていました。「余談ですが」と言いながら「(笑)」付きで語られた話ですが、これを読んで、私はずっと「勝手にしやがれ」に抱いていたモヤモヤイライラの正体がわかったような気がしました。
この歌詞の男は、女のことを対等な存在とは思っていないんです。まさに父と娘の関係のように捉えている。
「行ったきりならしあわせになるがいい」とか、娘の幸せを願う昔気質の父親だったらこんなふうにも言うかなーしょーがないなーって感じなのが、それをパートナーであるはずの男が女に対して言うとか、なに「なるがいい」って、おまえが「許可」してんの? どこにそんな権限あると思ってんの?? その無意識の支配者ポジションが、イライラ通り越して怖いです。
そして「戻る気になりゃいつでもおいでよ」ですが、これも親が娘に向かって言う言葉とすれば、わからないこともない。結婚という選択が間違いだったとわかったら実家に戻ってきたらいいよ、と言ってもらえることは娘にとっては、まあ心の拠り所にはなるでしょう。昔は一度嫁に行ったらもう二度と実家の敷居は跨ぐな、と家長は言うべきとされていましたが(いつの時代だ)、「娘ちゃん大好きな優しいお父さんはそんなことは言わないよ〜」「いつでも帰ってきていいんだよ〜」っていう、ものわかりのいい父親のお言葉ですね。キモいですが、まー百万歩譲って親ならしょうがない。
しかーし、この歌詞の場合、それを言っているのはその間違った選択肢である男のほうなんですよ。女はこれ以上そいつとは暮らせないと愛想を尽かして出ていくってのに、なに「戻ってきたら許してやる俺って優しい〜」ってな自己満足に浸ってんですか。結婚する娘は別に実家がイヤで出ていくわけじゃないですけど(そういう人もいるかもしれませんが)、この歌詞の女はその男と暮らすのがもうイヤになったから出ていくんですよ。わかってますか? わかってませんよね。
さらに、「せめて少しはカッコつけさせてくれ 寝たふりしてる間に出て行ってくれ」。これも結婚式当日の朝の父親のあるあるじゃないでしょうか。娘を嫁に出す男親のつらい気持ち描写で、娘を持つ男同士の「わかるわかる〜」の大定番ですが、大人なんだからちゃんと話しろよ。「カッコつけさせてくれ」って言ってますが、全然「カッコ」ついてません。こんなことされたらもう、娘だろうが女だろうが「はあ〜〜」と溜息ついて出ていくだけですよ。呆れて。

こんなふうに「勝手にしやがれ」は、森本氏の言うように、父が娘を送り出す歌にすると、いいも悪いも含めて「ドンピシャ」なんですが、これを「男と女の気分がよく出ていると思う」なんて意識で作っているから、女の側、それも今の時代の女から見ると、不均衡でおかしなことになってるんじゃないですかね。
でも、男たちはこれをヘンだとは思っていない。父と娘にしたって、父親は娘を支配できるという意識は問題なわけで、まさにそれと同じ問題を男と女の関係にも持ち込んでいるだけだというのに、そのおかしさにに気付いていないんですよ。

だいたいね、この歌詞の大前提である、女は男のことを愛している(けど出て行く)というのは、演歌と同じく男の願望ですよね。自分がとことん愛想を尽かされたのだとは思いたくない。
女は無条件に男のことを愛しているのだけれど、男が「ふざけて困らせた」り「愛というのに照れてた」りという、素直じゃない態度でいたために、(愚かな)女はそれを「愛」だとは理解できず、自分の愛に男は応えてくれないと「勘違いして」出ていってしまったと、男は思っているわけです。男同士だったら無言でわかり合えるこの気持ちを、女はわからない。
もしその女が戻ってきたとしたら、その「勘違い」が正されて、「愛というのに照れてただけ」だったんだねと女がわかってくれたからだと、男は思うだけです。だから、自分の態度は改めなくてもいい。以前と同じようにふざけてても大丈夫。

は~~、もう! なんだかもう!!
こんな男のところには戻らなくてよろしい! てか、戻っちゃダメー! と言いたくなりますが、この曲のアンサーソングと言われている山口百恵の「プレイバックPart2」の最後では、「私やっぱり帰るわね」つって、帰っちゃうんですよね。
なぜだ!!

ワンコーラス目はいいんですよ。「真紅(まっか)なポルシェ」で「気ままにハンドル切」って「ひとり旅」とか、かっこいいじゃないですか。やっぱり男が窓から見ていた「ふらふら行く」女は、単に駐車場まで運ばないといけない荷物が重かっただけなんですよ。それに「馬鹿にしないでよ そっちのせいよ これは昨夜の私のセリフ」ってことは、ちゃんと言いたいこと言って出てきたんですね。よかったよー。しかも、「女はいつも待ってるだけ」とか言って支配してこようとする男に対して、「坊や、いったいなにを教わってきたの」って、そっちのほうがなにも知らない子供じゃん!と、ずどーんと地面に叩きつける勢い。
言ってやれ言ってやれ、どんどん言ってやれーと拳振り上げて応援する勢いですが、最後のフレーズ「私だって、私だって、疲れるわ」で、ちょーっとイヤな予感がよぎります。
え? そこ、「怒る」じゃなくて? 「馬鹿にしないでよ」って強気できた女が、ここで「私のことも少しはわかってよ」って、男に泣き付いてるような、そんな雰囲気です。そこを歌うときの百恵ちゃんの、ちょっと上目遣いになるような甘えてるような歌い方のせいもあるんですけどね。
そのイヤな予感は的中して、ツーコーラス目の最後では結局「私やっぱり、私やっぱり、帰るわね」ってなっちゃうので、この「疲れるわ」の、女の弱さをチラ見せする百恵ちゃんの表現は大正解なんですが、そもそもなんで「帰る」んですか? しかも「強がりばかり言って」支配しようとしてくる男に対して、「本当はとても淋しがり屋よ」と先回りした理解までしてやるとか、これって、完全に男に都合のいい女になっちゃってますよね。残念だー。

「プレイバックPart2」がリリースされたのは、1978年5月。「勝手にしやがれ」のちょうど1年後です。車を自分で運転して(しかもポルシェ!)、交差点で文句つけてきた隣の車の男に怒鳴り返すぐらいの気の強い女であっても、愛してくれている男のことは許してあげるべき、というか、そもそも女とはそういうものでしょ、というのが一般的な認識だったんでしょう。まさに男に都合のいいホモソーシャルな縛りから、女性ボーカルの歌ですら自由になれないでいたわけです。
昭和の限界か。
この戻った女が男を尻に敷いて思い通りにするっていう未来もありなんじゃない?と言っていたジュリ友さんもいましたが、そうなったらそうなったで、結局は男の母親的な役割に落ち着くことになってしまい、いくら言ってもふざけてばかりの男に対して「いいかげんにして 私あなたのママじゃない」とブチ切れることになるような気しかしません。
この超かっこいい歌詞の「ロックンロール・ウィドウ」は、「プレイバックPart2」から2年後の1980年リリース。ということは、昭和というよりも1970年代の限界だったんでしょうか。
ジュリーの曲も80年代からは、男に都合のいいようなものばかりじゃなくなっていますし、古いタイプの男女を歌う昭和歌謡が広く受け入れられた最後の時代だったのかもしれません。


《その3》に続きます。



ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


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ついに来てしまいましたね。
超有名曲「勝手にしやがれ」
ジュリーと言えばこれ。「壁ぎわに寝がえり」と言えばジュリー。
あまりにも有名な曲なもんで、どこから切り込んでいけばいいのか全然わかりません。
ので、とりあえず、当時の私の記憶の掘り起こしから。

1977年5月にリリースされたこの曲でジュリーは、前年に辞退した年末の賞レースに参戦すべく、「どんなことでもやりました」(byレコード大賞受賞時の司会の高橋圭三さんの言葉)んだそうです。「どんなことでも」ってどんなこと?という(腐)妄想はともかく、この年、1日も休まず働いたというジュリーは、テレビ、ラジオや雑誌に出まくりでした。このころ(中学3年生)にはすっかり漫画やアニメやSFに心奪われ、オタクへの道を粛々と歩んでいた私にも、この曲は耳タコになるほど届き、あのクリーム色のスリーピースの衣装も帽子投げのアクションもはっきり覚えております。
そして、それは当時の日本国民全員がそうだったのでしょう。ある年代以上の日本人で、この曲を知らないという人はまずいないと思います。興味あるないに関わらず老若男女みんなが毎日のようにジュリーを見て「勝手にしやがれ」を聴き、そして小学生男子はジュリーの真似をして帽子を投げてなくし、親に怒られ……。
そんな社会現象になるほどにこの曲はヒットし、レコードも「時の過ぎゆくままに」に次ぐ売り上げを記録し(って、こんだけヒットした「勝手にしやがれ」「時の過ぎゆくままに」の売り上げ枚数を超えられなかったことが驚きですが)、年末の賞レースを総ナメにし、念願のレコード大賞も受賞したのでした。

2009年にファンになったばかりの私は、1976年の事件にまつわるあれこれや、この曲をヒットさせるためにジュリーが苦労したことなどを後追いで知りましたので、今でこそ「よかったね、ジュリー(涙)」とハンカチを絞る思いですが、当時はなんというか……ジュリーがレコ大とることについては、あんまり意外性を感じていなかったような気がします。

以前も書いたように、私のジュリーファーストインプレッションは小学5年生のときの「危険なふたり」。キラッキラなアイドルジュリーです。しかも、ジュリーはその時に新人というわけではなく、すでにすっかり名の売れたスターでした。私がはっきり記憶にあるのは「危険なふたり」からですが、そのずっと前からジュリーが人気者だったことは知っていたんだと思います。私にとって「ジュリー」とは、物心付いたときからいつでもテレビの中にいる人、そんな存在だったんですよ。
その「危険なふたり」から「勝手にしやがれ」までの約4年間。「恋は邪魔もの」「追憶」「時の過ぎゆくままに」とかとか、曲を聴けば「あ、知ってる」と、歌っている当時のジュリーの姿とともに記憶がよみがえるものもたくさんありますが、いかんせんただ薄ぼんやりとテレビを観ていただけの子供だった私の中で、そのへんのリリースの順番はあいまいだし、ましてやジュリーのテレビの外での事情などは全然わかっていませんでした。

ただ、ワイドショー的な噂話がなんとなく耳に届いていたのか、「勝手にしやがれ」の直前ぐらいの時期には、「ジュリーはもうテレビには出なくなったんだ…」という認識があったように思います。なので、私の感覚だと、「勝手にしやがれ」で派手に登場したジュリーは、かつて大スターだったけれど何年も(!)芸能界から離れていた人がまた復活してきた、というふうだったんですよ。
オソロシイことですね。
なんだか私のまわりだけ時間の流れが歪んでいたんじゃないのかという気もしますが、前年の事件のせいで、たったの1ヶ月とはいえ一切人目に触れないとか、賞レースや紅白を自分から辞退して年末のテレビに出ないなんて、当時の芸能界の勢いや流れの速さもあって、「このまま辞めてしまうの?」と思われてもしょうがなかったのかもしれません。
それほどのマイナスの位置からの復活を、歌謡界の最高峰である年末のレコ大受賞で飾る目標を立てたジュリーは、本当に極端というか、負けず嫌いというか、やりすぎというか……、そんなところが今は大好きなんですが、しかし、当時の私は、ジュリーがそんなに頑張っているなんてまったく知らず、当然のように話題を集め、そしてレコ大も他の賞も当然のようにかっさらっていったように思っていました。

だってね、あのころのジュリーはすでに大御所っぽかったんですよ。少なくとも私にはそう見えていました。私の歪んだ時間軸のせいですが、何年も芸能界から遠ざかっていた(と思っていた)ジュリーは実際の年齢よりももっと年上のように思われ、そんな大スターがこんなにテレビに出まくってたら、そりゃみんな注目するよなって感じがしていたんですよ。
それに、テレビの中でのジュリーの扱いって、なんだか特別じゃなかったですか? ジュリーが出てくると、若い歌手はもちろん、年かさの司会者の方々ですら、ただのファンのように「きゃ〜!」って言っちゃったり。そんなふうに、テレビのこっち側だけじゃなくて、テレビの中にもファンがいっぱいいる、そんな扱いをされているように見えたんですよ。
そんなわけで、子供の私にとって、「危険なふたり」のころは4年どころかもっと昔のことのように感じられ(私の小学5年生から中学3年生という成長期のせいもありますが)、「勝手にしやがれ」のジュリーのことは、古い芸能人たちにまでリスペクトされている、うんと年上の「おっさん」と認定してしまったのです。
なんということでしょう~。
まー、当時ジュリーは29歳。15歳の中学生から見たら、29歳も40歳もあんまり変わらない「おっさん」ですからね。特に当時は、だいたい25歳以上はひとくくりに「大人」って扱いじゃなかったですか? 私だけ?

しかも、久しぶりによく見かけるようになったと思ったら、歌っている内容は、なんだか大人な世界。
「何気無さそうに別れましょう」と言う「年上の女」に「僕には出来ない まだ愛してる」と駄々をこねる「危険なふたり」には、小学生にも理解でき、憧れられる少女漫画な世界がありました。それが、荷物をまとめて出ていく女を寝たふりして見送るなんて、「こういうのが大人の男女ってもんなんだろうなあ」と、まったく実感なく聴くしかない中学生、それは私。
結構エロいシーンもある青年誌に載っている漫画や海外のハードボイルド小説の世界ってとこでしょうか。かっこいい大人の男女関係として「学習」することはできるけれど、いずれ自分にも訪れるかもしれない恋愛として憧れるのとはちょっと違う。むしろそっち方面には行っちゃいけないと世間一般では言われているような、まさに演歌の世界です。
その、「危険なふたり」「勝手にしやがれ」の世界観のギャップの大きさによっても、ジュリーがなんだかおっさんになってしまったように感じたんだと思います。

で、その歌詞ですけどね。大ヒットしたのもよくわかる、本当によくできた歌詞だと思います。「なに言ってるかわかんねえなー」ってところはひとつもなく、どんな状況なのか男女の位置関係までがはっきりわかり、語り手である男の気持ちも、なるほど「勝手にしやがれ」ってことなんだろうなあと、疑問の余地はありません。

しかし、問題はその男ですよ。
当時、中学生の私はこれをクールでかっこいい大人の男だ〜と思って聴いていたわけですが、作詞をした阿久悠氏は「かっこ悪い男」として描いたつもりだったんですよね?
では、「ジュリーが歌うならどんなかっこ悪い男もかっこよくなるから、安心してかっこ悪い男の歌詞が書けた」という「かっこ悪い男」とはどんな男だったのか?
阿久悠氏はエッセイ「歌謡曲の時代」で「勝手にしやがれ」の歌詞について、「……真っ直ぐに、熱烈に愛することに照れるというのが、一種のトレンドのような時代で、素直であれば幸福になれるのに、斜に構えて不幸になるというのが多かった。」「ワンマンショーを気取って悲しみをごまかす男、ぼくらは三十年近く前に、そういう愛を歌で描いていた。」と書いていて、ということは、素直になれず斜に構えて不幸になり、そしてワンマンショーのように俺はひとりきりだぜと開き直って悲しみをごまかす男が「かっこ悪い」と? いやいやいや、当時はそういう男こそ「かっこいい」とされていたんじゃないですかね? 事実、当時の私はそういうのを「大人のかっこいい男」と思っていたわけですし、ジュリーも、阿久悠氏の歌詞はかっこよすぎてあんまり好きじゃないってことを言っていたんですよね?

そのへんがどーもよくわからないなーとずっと疑問だったんですが、去年(2016年)の10月に発売された「週刊現代」の「沢田研二『勝手にしやがれ』を語ろう」という、当時のプロデューサー・木崎賢治氏、マネージャー・森本精人氏、アレンジャー・船山基紀氏による鼎談記事の中で、木崎氏が「この詞は、阿久さんがフランス映画『勝手にしやがれ』の主演男優、ジャン=ポール・ベルモンドのような、カッコ悪い男をジュリーにやらせたいと思い作りました。情けない男の美学です。」と言っていて、タイトルがこの映画からのものだということは知ってはいたんですが、ベルモンドをジュリーにやらせたいと思ってということは初めて知って、あーー、そういうことか、とちょっと腑に落ちました。
「かっこ悪い」=「情けない」男ということですね。
でも、情けない男がイコールかっこ悪いってことはないですよね。
だって、ジャン=ポール・ベルモンド、かっこいいじゃないですか。映画の「勝手にしやがれ」は、遅ればせながらこないだやっとDVDを借りてきて観ました。ベルモンドは正統派ハンサムではないですが、スタイリッシュで、そしてダメそうなところがたまりませんなあと、以前からスチール画像を見るたびに思っていたんですが、実際観たらやっぱりスタイリッシュだし、すねた顔がかわいいし、そして本当にとことんダメで、そこがまたかっこよかったです。

1974年から75年にかけて放映していたショーケン主演の「傷だらけの天使」や、1977年に始まった第2シリーズで人気が出た「ルパン三世」や、平井和正のSFハードボイルド小説「アダルト・ウルフガイ・シリーズ」とかも同じ世界観じゃないかと思います。「ウルフガイ」の犬神明は、ジャン=ポール・ベルモンドに似てるって設定ですしね。大好きでした。
たいがい、敵対する悪者たちにこてんぱんにやられ、不二子ちゃんには裏切られ、ボロボロな情けない姿を晒しつつ、最後は男同士の連帯によって、もしくはそれまでは隠していた力を発揮して、勝利して筋を通すけれども、自分自身の当初の目的は果たされなかったり、想いを寄せた女とは結ばれなかったりして、でもま、それもいいか…なんつって去っていく、もしくは日常に戻る、みたいな。
映画「勝手にしやがれ」のジャン=ポール・ベルモンドは死んじゃいますが、でもその死に方も、大義のためとか誰かを救うためとかじゃなく、なんかもうどーでもいいやーって感じで死んじゃう。しかも、最後の言葉は「まったく最低だ」ですよ。死ぬ間際にきれいなことを言わないってところがまた、かっこいい。

「週刊現代」の鼎談の中で、木崎氏は「(情けない男の歌は)「ジュリーのイメージが崩れてしまう」と思ったんです」と言い、マネージャーの森本氏も「ジュリーはそれまでずっとカッコいい男の世界観を伝えてきていましたからね。」と言っています。
しかし、以前のジュリーのシングル曲のように、とにかく「愛している」ということをはっきりきっぱり言い、その愛している女のためなら「死んでもいい」とまで言う男というのは、確かにジュリーファンの女の子たちには「かっこいい〜」と思われていたんでしょうが、それって、男たちもかっこいいと思っていたんでしょうか?
「こんなナヨナヨした「愛してる」しか言わないような男がいいなんて、本当に女子供はわかってないな」とか思ってませんでしたかね? 「男のかっこよさってのはもっと違うところにあるんだ」とかさ。
そういう「違うところ」を描いたのが、映画の「勝手にしやがれ」であり、「傷だらけの天使」であり、「ルパン三世」だったんですよ。女にかかずらわってるよりも、男にはもっと大事なことがあるんだー、てとこですかね。

これを「かっこいい」「かっこ悪い」と普遍的な言い方で言うからよくわからなくなるんであって、要するに「さよならをいう気もない」のところでも言ったような、女子供にはわからないと男たちは思っているホモソーシャルな関係の中だけで通じる「かっこいい」であると考えたらいいんじゃないでしょうか。
「本来ならさらけ出したりしない男の情けなさを隠さないかっこよさってのは男同士にしかわからないよねー、普通は「かっこ悪い」って言われちゃうもんねー」ってところですかね。

なので、当時中学生の私も、「勝手にしやがれ」は「かっこいい男の歌だ」と思って聴いてはいたんですが、歌詞の内容に関しては「かっこいいわあ〜ぽわわ~ん」てのとは違って、「かっこいい大人の男ってのはめんどくさいもんだな」ぐらいの認識だったように思います。
ひねくれててすみません。



案の定、超絶長くなっちゃったので、
今回は3回に分けます。
《その2》に続く〜


ジュリーのシングル曲をネタにして、
昭和の女性が負わされていた女性像を考えてみよう


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「その1」で延々と語ったように、
「さよならをいう気もない」の歌詞は、
阿久悠氏の作詞技巧がさまざまに凝らされた
秀逸な一品と言えますが、
しかし、そこに描かれているのは、
やっぱり男に超絶都合のいい女性像。
「ハイヒール」「詩人」「ミュージカル」という、
おっさん演歌にはまず出てこない
単語を入れ込むことで、
都会的でシャレオツーな雰囲気に
なってはいるんですが、
演歌でなくとも、昭和なムード歌謡だったら
こういう歌詞もありそうな気がします。
やっぱりタキシードや
ビシっとしたスーツの
おっさんが眉間に皺寄せて、
もしくは妙に甘ったるい低音で
ムーディに歌うイメージ。
ムード歌謡ですからね。
そして、冒頭で言ったように、
そこにはおっさんたちの
ホモソーシャルな関係がチラチラします。
歌うのもおっさんなら、
それを喜んで聴くのもおっさん。
「こんな女がグッとくるんだよねー」
「ねー」
「こういう男の気持ちは女にはわかんないんだろねー」
「ねー」
「こんな女どっかにいねえかなー」
「なー」
みたいな。

いねえよっ!

こんな、現実にはいそうもない夢の女と
身勝手な男が出てくる歌謡曲が、
当時は確かに売れまくっていましたが、
しかし、これを歌うことになったジュリーは、
こういう男たちのホモソーシャルな世界から
一番遠いキャラクターとして存在していました。

男同士の連帯というのは、
現実の女をディスりつつも、
女たちは全員自分を愛してくれないといけない、
という意識を持っていることが
暗黙の了解になっています。
そして、現実にはそんなことはないわけですから、
それを男同士で嘆くとか、
言葉に出さなくとも目配せでわかり合う、とか。
ところが、
ジュリーはまず、その美貌によって
世の中の普通の男たちとは一線を画してますし、
ザ・タイガースでデビューしたときから
世の中の女の子たちから絶大な愛を寄せられ、
そして歌うのは、
ひとりの女をとことん愛し続け、
またその女からも愛されている男の歌。
ジュリーに限らずそんな男は、
男同士のホモソーシャルな関係の中には入れません。
「あー、あいつはモテるからね」
「イケメンはいいよなー」
「彼女だけに愛を捧げるとか、よくやるよ」
とかとか、
なにかと仲間はずれにされます。
「ああ見えて男らしいんだぜ」とか
「結構いいやつだよ」と
受け入れられることもありますが、
それは「ああ見えて」という注釈付き、
及び「俺は認めている」という上から目線です。

中の人=沢田研二はどうなのかわかりませんが、
世間一般にはそんなキャラクターとして
認識されていたジュリーですので、
男にしかわからない夢の女を描いた歌詞、
それも女歌を、そのまま男として歌っても、
男たちからの「わかるわかるー」という
共感は得られませんし、
それまでのファンである女性たちにも
「男に傷つけられた(らしい)女の気持ちを
 歌うなんてジュリーっぽくない」
と、戸惑われてしまうでしょう。

そこで、ジュリーが編み出した変化球が、
あの「金キャミ」だったんじゃないでしょうか。

ジュリーは
「女性が着るタンクトップというか、
 下着みたいなのを着て、イヤリング付けて……」
とか言っていましたが、
あれはひとくちに「女装」とは言えません。

ジュリーは、
男性にしては骨格が華奢で肩幅も狭いので、
かわいらしいデザインのブラウスなんかを着ると、
胸のない女の子のように見えることもありますが
(「悪魔のようなあいつ」の良ちゃんとかね)
金キャミだと、
どう見てもやっぱり男の、
ごつい首と肩のラインが露出します。
しかも、あの金キャミが女性の服装かというと、
それも違うんではないかなーという気もするんですよ。
だって、あんな格好した女の人、見たことある?
私はありません。
ボトムがパンツではなくロングスカートだったら、
外国のセレブのパーティドレスとか?
日本では叶姉妹ぐらいか?
でも、スカートではなくパンツスーツですし、
女性っぽいメイクをしているわけでも、
歌詞にも出てくるようなハイヒールを
履いているわけでもなく、
単純な「女装」とは違うように見えます。
かと言って、男性であんな服を着る人はいない……。

「金キャミ」を着て歌っているジュリーは、
「ベソをかく」ではしょんぼりした仕草をし、
ハイヒールを両手に下げたり、
「歌えない 踊れない」と肩をすくめたりと、
歌詞の中の「私」になりきっているように見えますが、
女のふりをしている、
というのとも違う気もします。
あれは、「女」でも「男」でも、
「ジュリー」でさえなく、
「さよならをいう気もない」という
歌そのものを体現した姿なんじゃないでしょうか。

当時の歌謡曲というものは、
歌っている歌手自身に
イメージを託している部分が大きくて、
男の歌手ならばその歌っている内容は男の立場、
女ならば女の立場、若ければ若者の立場で
歌っているものだと、
聴くほうは了解していたと思います。
性別年齢だけではなく、
その歌手の見た目や生い立ちまで含めた全体で、
聴き手へ届けるものだったんですね。
ジュリーもそれまでは、
「綺麗な顔をした」
「若い」
「女性に人気の」
「男」
という属性を活かした歌を歌ってきたわけですが、
上で書いたように、
今回の歌謡曲的=演歌的な
「さよならをいう気もない」は、
その属性のままで歌うと、
歌詞の背景にチラチラする
男に都合がいい女性像とか、
演歌的な既存のイメージとうまく噛み合わず、
ちぐはぐなことになりかねない。
ならばということで、この「金キャミ」は、
ジュリーが歌う「さよならをいう気もない」
テレビを通じて見せる、というのではなく、
歌っている「ジュリー」を含めた
テレビの画面全部を
「さよならをいう気もない」という世界に
してしまおうという、
そんな試みだったのかもしれません。

そんな、男とか女とかを超越した、
「性別・ジュリー」としか
言いようのないなにかになったジュリーが歌う
「さよならをいう気もない」は、
演歌やムード歌謡に向けられる
男たちのホモソーシャルな眼差しを吹き飛ばし、
時代も国も違うまるで洋画のワンシーンのような世界を
そこに出現させました。
それは、
聴く人の生活や実体験とは切り離されていますから、
ハイヒールのかかとを折って泣いていたり、
裸足で歩き出したりする女は、
身のまわりの男どもが「げっへっへ…」と
都合よく妄想するような
シチュエーションに置かれているのではなく、
女性も憧れることのできる
素敵な恋愛関係の中にいるんだと思いつつ
聴くことができるのです。

とはいえ、
いきなりあんな格好で歌い出された日にゃあ
(「夜のヒットスタジオ」の初披露では、
 最初は上着を着ていて歌う直前に脱いで
 キャミになります)
その「それどーなってんの!?」ってな衣装やら、
ジュリーの鎖骨やら胸の谷間やら、
金色のパンツに包まれたプリケツやら、
はたまた曲の途中でハラリと落ちる肩紐やらに
目を奪われて、
歌詞の内容なんざ
誰も聴いちゃいなかったんじゃないかと思われます(笑)。

残念ながら私はリアルタイムでの「金キャミ」のことは
記憶にないんですが、
ジュリーに堕ちた初めのころ、
「夜のヒットスタジオ」の画像や動画を
ネットで見つけて、
「な、ん、じゃ、、こりゃあ〜〜〜!!!」
と、PCの前で実際に声を上げました(笑)。
破壊力バツグンです。
もしかしてあれは、
いくら売るためとは言え、
あまりにも歌謡曲的(演歌的?)な歌詞から
目をそらさせるための、
ジュリーと衣装担当の早川タケジさんや、
加瀬邦彦さんたちの作戦だったのかもしれません。
だとしたら、その作戦は大成功ですよね。
変化球&豪速球って感じでしょうか。
あれを冷静に受け止められる人は、
ファンも含めて少なかったんじゃないかと思います。

ジュリーは、
1976年5月に起こした暴行事件のあと、
自主的に1ヶ月の謹慎をし、
その年は紅白歌合戦も賞レースも
すべて辞退しているので、
1977年は心機一転、再出発!って気持ちで
臨んだ新年だったんじゃないかと思います。
「新聞にああいう事件が出てしまったら、
 もうこれ以上の恥ずかしいことはない、
 親戚にも迷惑かけて。
 だから仕事でもってやることは、
 多少の恥をかいたって、
 あれに比べれば大したことはない」
(「我が名はジュリー」より)
と言っていて、
「もう怖いものはなにもない!」
と開き直ったジュリーは、
それまで誰もやらなかったことをやってやれ!
「派手であればいい、人目を引けばいい」
(「我が名はジュリー」より)
と思っての、
金色のキャミソールを着ての登場だったようです。

レコードの売り上げを伸ばすための
歌謡曲路線という会社側の思惑とは、
たぶん全然違う方向に突っ走った
ジュリーなわけですが、
新しい試みをなんでもやってみようという
雰囲気のあった当時の元気なテレビ界で、
そんな姿勢は好意的に受け入れられ
(ジュリーだったからってのもありそうですが…)
テレビ局側にもおもしろがって
サポートしようとする人が現れて、
従来の歌謡曲の見せ方とは
全然違うジュリーの世界がブレイクし、
次の「勝手にしやがれ」からの快進撃が始まるわけです。



というわけで表の解釈はここまで。
お次は【裏解釈】です。




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